大映俳優列伝(53)仁木多鶴子


大映はプロ野球チームを所有していた。最初は大映スターズだったが、1957年(昭和32年)開幕前に高橋ユニオンズと合併して大映ユニオンズ、更に同年11月には毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズとなり、オーナーは引き続き大映の永田雅一が務めた。当時毎日側の選手だった須藤豊(後に大洋監督)によれば、帝国ホテルで行われた大毎の結団式には永田が山本富士子や市川雷蔵ら「スクリーンでしか見たことがない」映画スターを引き連れて現れ、選手たちを驚かせた。オフの日には調布の大映撮影所に行って女優さんとおしゃべりするのが楽しみだったと言う。言わば映画俳優とプロ野球選手が系列会社の社員同士だったわけだ。その大毎オリオンズの選手と"社内結婚"したのが、仁木多鶴子である。
39年生まれ。父親はジャズトロンボーン奏者で、その影響か国立音楽大付属中学、同高校を経て国立音楽大ピアノ科に進む。化粧品のPR雑誌に写真が載ったことをきっかけに中退し、57年に大映第11期ニューフェイスとして入社。同期には藤巻潤や丸井太郎がいた。東京撮影所所長だった永田秀雅(雅一の息子)によれば、新人の頃から撮影所内では若尾文子に似ていると評判だったらしい。
同年12月、本名の鶴田和子で「十七才の断崖」に出演しデビュー。58年、仁木悦子の江戸川乱歩賞受賞ミステリー原作の「猫は知っていた」に主演し、原作者に因んで仁木多鶴子に改名している。
59年にはメロドラマの「たそがれの東京タワー」に主演するが、なまじ若尾文子に似ていることが個性を削いでしまったのか、この路線ではスターになれなかったようである。
次に出演したのが野球映画「一刀斎は背番号6」である。原作はジャイアンツが舞台だが映画ではオリオンズに変更され、当時の主力である田宮謙二郎、山内和弘、榎本喜八、荒巻淳、小野正一らオリオンズの選手たちに加え、西鉄ライオンズの稲尾和久らも出演している。仁木多鶴子がオリオンズの選手と共演するシーンはないが、撮影中に顔を合わせる機会は何度もあったのだろう。後の伴侶である小野正一との出会いはこの映画がきっかけとされている。
小野正一と言っても今では殆ど誰も知らないだろうが、当時の大毎のエースで、通算184勝、通算2244奪三振を記録した左腕投手である。
余談だが58年のオープン戦では当時のゴールデンルーキー長嶋茂雄にホームランを打たれているのだが、新聞に「同じ左腕の小野を打ち込んだからには、開幕で対戦する国鉄の金田正一を打ち込んだも同然」などと書かれ、それを読んだ金やんが「同じ"正一"だからって一緒にすんな!」といきり立ったと言う逸話がある。「一刀斎は背番号6」の劇中でも、菅原謙二演じる一刀斎の打撃練習に登板しホームランを打たれる役割である。
話を仁木多鶴子に戻すと、60年には市川雷蔵主演の「濡れ髪喧嘩旅」で妖艶な女間諜に扮し、以後は弓恵子、宮川和子とのトリオで「お嬢さん三度笠」「東海道ちゃっきり娘」「銀座のどら猫」などの明朗映画に主演した。一方、小野もこのシーズンに最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠を獲得する活躍でオリオンズに合併後初のリーグ優勝をもたらした。その年の暮れに2人は結婚したのである。
その後も女優を続けたが徐々に出演が減り、68年の「セックス・チェック 第二の性」を最後にスクリーンを去り、引退した。
83年、44歳の若さで他界した。

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大映俳優列伝(52)見明凡太朗


伊達三郎が大映京都の顔なら、大映東京の顔は見明凡太朗だろう。
1906年(明治39年)生まれ。見明と言う姓は本名で、下の名は「先」を二つ重ねて書いて「すすむ」と読む珍しい名前である。
23年(大正12年)、下関商業学校を卒業後に上京し日本映画俳優学校に入学。ちなみにこの学校は六代目尾上菊五郎が設立した日本俳優学校や戦時中に存在した日本映画学校、75年(昭和50年)に今村昌平が設立した日本映画学校(現・日本映画大学)とは全く別のものである。坪内逍遥門下の水口薇陽が独力で設立し、舞台俳優とは一線を画した映画俳優の養成を目指した学校で、見明は2期生、同期には小杉勇や南部彰三、後に監督に転じる島耕二らがいた。
苦学をしながら卒業し26年、日活代将軍撮影所に入社。芸名を見明凡太郎(のちに凡太朗)とする。デビュー作として『日本映画俳優全集』では27年(昭和2年)3月の「彼をめぐる五人の女」(阿部豊監督)を挙げているが、日活作品データベースによれば2月の「競争三日間」(内田吐夢監督)の方が先に公開されている。
28年、喜劇「松竹梅」で初主演。29年、日活太秦撮影所に移り、32年からは不二映画に移籍するが、同社の解散で新興キネマに入社。35年に日活に復帰して日活多摩川撮影所に所属。42年、大映設立により大映東京撮影所に所属する。
生涯で400本、大映だけでも300本近い作品に出演している。未見だが終戦直後には「瓢箪から出た駒」(46年)と言う潮万太郎とともに主演した喜劇もあったらしい。個人的に印象に残っているのは「幻の馬」(55年)と「大菩薩峠」三部作(60~61年)である。前者は大映社長・永田雅一が馬主として所有していたダービー優勝馬・トキノミノルを生涯を描いた作品で、牧場主を演じている。後者は中里介山の原作を市川雷蔵主演で映画化したもの。机竜之介(雷蔵)に祖父を殺され孤児となったお松(山本富士子)を養育し、彼女を助けて仇の竜之介の行方を追う裏宿の七兵ヱを好演している。ほかにも「残菊物語」(56年)の守田勘弥、「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(66年)の自衛隊司令官、「白い巨塔」(66年)の岩田医師会長など、時代劇、文芸物、特撮まで幅広く活躍した。
大映には最後の作品「悪名尼」(71年)まで出演しているが、それ以前に退社していた模様で67年からは日活、東映のヤクザ映画を中心に出演している。テレビにも「鬼平犯科帳」 (NET、八代目松本幸四郎版)や「水戸黄門」(TBS)、「破れ傘刀舟悪人狩り」(NET)などに多数出演。78年の映画「最も危険な遊戯」(東映)を最後に出演作はない。

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大映俳優列伝(51)伊達三郎


今回は「大映京都の顔」とも言うべき脇役中の脇役の伊達三郎である。大映後も長くテレビ時代劇の悪役として活躍したので、その面長で鋭い眼光、しゃくれた顎が特徴的な顔に見覚えのある人が多いはずである。
1924年(大正13年)生まれ。家業の材木業を手伝っていたが召集されて北支を転戦。45年(昭和20年)に復員し10月に大映京都撮影所に入社。倒産まで300本近い作品に出演している。
本名は桜春太郎と言う旅芝居一座の役者のような名前である。デビュー作は45年12月の「最後の攘夷党」で、続く「滝の白糸」「国定忠治」にも本名で出演している。46年10月、「おかぐら兄弟」に出演した際に監督の稲垣浩から伊達三郎と命名され、これが公式デビューとされているようである。
大映京都に欠かせない脇役として時代劇から文芸物までありとあらゆるジャンルに出演している。中でも「続・忍びの者」「新・忍びの者」(63年)で演じた服部半蔵ははまり役で、代表作のひとつだろう。
悪役専門と思われがちだが、一方で市川雷蔵のデビュー作「花の白虎隊」(54年)では雷蔵の家僕、「破戒」(62年)で部落民、「新・悪名」(63年)で気の弱い三国人、「大魔神」(66年)で忠義の家臣、「十代の妊娠」(70年)で南美川洋子の父親役など、意外と善人役も結構やっていたりする。
68年末から一時芸名を「伊達岳志(たけし)」に改名していたことがある。これは姓名判断に凝っていた市川雷蔵の勧めによるものだと言う。同じ大映に伊達正がいるので、タケシとタダシでは紛らわしかったと思うが、雷蔵の死後また元の名前に戻している。ちなみに2人の伊達は東西の撮影所に分かれて在籍していたため、同一作品に出演したのは大作映画の「日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里」(57年)と「秦・始皇帝」(62年)ぐらいで、直接の共演はなかったようである。
『日本映画人名辞典』には70年にフリーになったとあるが、その後も倒産まで映画は大映作品にしか出ていない。大映京都最後の配給作品「蜘蛛の湯女」にも出演している。
倒産後もテレビ、映画で憎々しい悪役として活躍し、特に「水戸黄門」(TBS)には悪徳商人、やくざの親分役などで毎シリーズ必ず1回は出演していた。晩年は枯れた老人役を演じることもあり、個人的には映画「台風クラブ」(85年)の老用務員役が印象に残っている。
91年に67歳で死去。
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大映俳優列伝(50)花布辰男、丸山修、杉森麟

伊東光一、高村栄一、大山健二が重役クラスだとすれば、その下の中間管理職の印象があるのが花布辰男、丸山修、杉森麟の3人である。

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花布辰男は1912年(大正元年)生まれ。30年(昭和5年)、中学を卒業して六代目尾上菊五郎が設立した日本俳優学校に一期生として入校。同期生には織田政雄、三津田健、植村謙二郎らがいた。
37年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し「煙る故郷」でデビュー。42年、大映東京撮影所所属となり倒産まで在籍した。
大山が社長役の「黒の試走車」(62年)で自動車メーカーの技師長、「砂糖菓子が壊れるとき」(67年)でも大山の部下の映画プロデューサーを演じている。痩身と細い声が特徴的で、医者や大学教授など知的な役柄も多い。伊東や高村、大山と違い時代劇への出演も多く「日蓮と蒙古大襲来」(58年)、「大菩薩峠」(60年)、「なみだ川」(67年)、「怪談雪女郎」(68年)などに出演している。大映最後の出演作も時代劇の「狐のくれた赤ん坊」(71年)だった。
大映倒産後は映画2本、テレビに1本出たぐらいの記録しか見当たらず、あまり活動していなかったようだ。75年9月、徳間大映の「金環蝕」(山本薩夫監督)に民政党大会議長役で出演したのが最後だろう。

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丸山修は1915年(大正4年)生まれ。33年(昭和8年)、中学を卒業してカメラ会社に入社。36年、新興キネマのカメラマンを志すが欠員がなかったので同社の大泉俳優学校に入る。同期に須賀不二男、若原雅夫がいた。
まもなく中退して日活多摩川撮影所に入る。『日本映画俳優全集』によれば同年11月「高橋是清自伝・前後篇」がデビュー作である。ただし映画データベースには戦前の出演記録が見当たらない。41年兵役につき、44年復員して大映東京に入る。
50年代は文芸物の脇役として存在感を発揮した。高峰秀子の兄役を演じた「稲妻」(52年)では撮影所長賞を受賞したそうだ。溝口健二監督の遺作「赤線地帯」(56年)では失業して妻を赤線で働かせている夫を演じている。温和な顔立ちで、人が好く頼りない中年男がはまり役だった。医師や教師の役も多く、悪役は全くと言っていいほど見当たらない。
70年「ガメラ対大魔獣ジャイガー」を最後に大映を離れ、日活映画「女の警察 乱れ蝶」に出演したのちテレビに転じて71年7~10月に「太陽の恋人」(NET)でレギュラー出演したのを始め、72年「ターゲットメン」(NET)「パパと呼ばないで」(日本テレビ)「仮面ライダー」(NET)、73年「雑居時代」(日本テレビ)などにゲスト出演がある。75年の「伝七捕物帳」(日本テレビ)を最後に出演記録は見あたらない。

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大映現代劇で毎回のように顔を見かけるのが杉森麟である。生年月日やデビューの年月日など一切不明だが、1946年(昭和21年)3月公開の「街の人気者」には既に名前がある。ノンクレジット出演が多いので大部屋俳優だったようだ。「黒の報告書」(63年)の警察医、「黒の超特急」(64年)の公団係長など、クレジットがある場合でも1シーン1台詞ということが多い
何気にガメラシリーズの常連でもあり、クレジットがあるのは「大怪獣ガメラ」(65年)の警察署長役と「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(67年)の村人役だけなのだが、「ガメラ対大悪獣ギロン」(69年)では天文台所員、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」(68年)「ガメラ対大魔獣ジャイガー」(70年)「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(71年)にはそれぞれ対策本部のメンバーで顔を出していたりする。
倒産まで在籍していたらしく、大映東京最後の作品「悪名尼」にも出演している。
その後も大映テレビ制作のTV「なんたって18歳!」第45話(1972年8月8日放送)に出演歴があるので俳優活動を続けていたと思われるが、詳細は不明である。

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大映俳優列伝(49)伊東光一、高村栄一、大山健二

大映現代劇で会社重役など重鎮の役柄を多く演じた脇役と言えば伊東光一、高村栄一、大山健二の3人である。

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伊東光一は1907年(明治40年)生まれ。静岡県伊東市の医者の息子で芸名は出身地に由来する。
32年(昭和7年)、松竹蒲田撮影所に入社し大部屋俳優として過ごす。終戦後の46年に大映へ移籍し倒産まで在籍している。
「黒の報告書」(63年)の検事正、「白い巨塔」(66年)の医学部教授、「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(66年)の大阪府警本部長、「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(67年)の道路公団局長など専ら現代劇で120本以上出演している。時代劇出演は「座頭市血煙り街道」(67年)と「天狗党」(69年)ぐらいである。
大映倒産後もテレビや映画に出演し、「日本沈没」(73年、東宝)で外務大臣、山本薩夫監督の「華麗なる一族」(74年、芸苑社)では佐藤栄作もどきの総理大臣役を演じていた。77年以降は活動記録がない。

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高村栄一は1902年(明治35年)生まれ。慶応大学経済学部に進むが23年(大正12年)、関東大震災に遭い中退する。新聞記者を経て俳優に転じ、25年、東亜キネマに入社。
34年(昭和9年)、大都映画に移籍。39年の「怪電波の戦慄」二部作では、人間タンク(ロボット)を巡って藤間林太郎(藤田まことの父)らと争う敵役を演じている。
42年(昭和17年)の大映統合に伴い東京撮影所に移籍。戦前までは時代劇・現代劇の両方で敵役を演じたが、戦後は現代劇専門で時代劇出演は「好色一代男」(61年)ぐらいしか見当たらない。伊東光一とは「巨人と玩具」(58年)「黒の試走車」でともに会社重役を演じ、「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」では大阪府知事役で共演している。「からっ風野郎」(60年)でやくざの幹部、「黒の報告書」(63年)で悪徳商事会社の社長など悪役も多い。
69年「女賭博師丁半旅」を最後に出演記録はない。

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高村と伊東が重役を演じた「黒の試走車」で社長役だったのが大山健二である。
1904年(明治37年)生まれ。25年(大正14年)に松竹蒲田撮影所へ入社。32年(昭和7年)1月公開の成瀬巳喜男監督「女は袂を御用心」では主演もしている。
戦後は東宝・新東宝中心に出演し、大映東京撮影所に入ったのは57年と意外に遅い。以後脇役として80本近い作品に出演している。
「妻は告白する」(61年)の裁判長、「若親分あばれ飛車」(66年)の市長、「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」の警察署長など「長」と名の付く役柄が多い。ずんぐりした体躯で訥々とした口調が特徴だが、正直言って演技はうまくない。
大映倒産の1年前、70年に亡くなったらしい。最後の出演は69年の「ある見習い看護婦の記録 赤い制服」だったようである。

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