川口浩と田宮二郎

川口浩が大映退社前に出演した最後の映画は「秦・始皇帝」(1962年11月)である。前年の「釈迦」に続く70ミリ大型映画第2弾として製作されたこの作品には、主演の勝新太郎を始め市川雷蔵、長谷川一夫、本郷功次郎、川崎敬三、倒産した新東宝から移籍した宇津井健ら大映オールスターが出演している。だが出演していないスターもいる。田宮二郎である。
川口と田宮は同じ年に大映入りし年齢もほぼ同じ(田宮が1つ上)。だがスターとして活躍した時期がずれているため同時代の俳優と言う印象が薄い。川口が華々しく主演デビューした1956年に田宮は大映第10期ニューフェイスとして入社。デビュー作は1957年8月公開の「九時間の恐怖」とされているが、実際に初めて名前(当時は本名の柴田吾郎)がクレジットされたのはその前の「満員電車」(1957年5月)であり、主演の川口浩とも初共演している。役柄は川口と同窓の大学生役、卒業式で川口に「どうした?無理すんなよ」と声をかける冒頭シーンだけの出演だった。
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その後も同期の叶順子や石井竜一がいち早く青春スターとして抜擢されいくのに対し、田宮にはなかなか芽の出ない日々続く。58年1月公開の「東京の瞳」(若尾文子主演)で川口と2度目の共演をしているが、6月公開の川口の主演作「巨人と玩具」ではクレジットにも載らないエキストラ扱い。だが芸名を田宮二郎に改めた59年から主演女優の相手役として起用されるようになり、1959年5月公開の「私が選んだ人」では実生活で川口と結婚する野添ひとみの結婚相手を演じている。 何故かこの作品が田宮の初主演作とされていることが多いのだが、ポスターもクレジットも野添に次ぐ二番手だしストーリー上から考えても準主演だろう。初めて田宮の名前がトップに来るのはその次の「代診日記」と言う作品である。とは言えこの作品はSP(ショートピクチャー)と呼ばれる60分余りの添え物映画であり、まだ二軍のスターの域を出ていない。一時は俳優を辞めようと思ったこともあったようだが、61年に勝新扮する主人公朝吉の弟分モートルの貞役を演じた「悪名」が大ヒットし、漸くスターとして認知される。翌62年に田宮の主演作3本に対し川口は1本と逆転。その年限りで川口は芸能界を去り、2人がスターとして並び立つことはなかった。
ちなみに川口は5年後に俳優業に復帰し大映にも1度だけ出演しているが、その時に田宮の姿はなかった。前年に社長の永田と喧嘩して大映を退社していたのだ。やがて田宮がテレビドラマに主軸を移した頃に川口は再び俳優から足を洗ってしまっている。

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大映東京撮影所

大映京都撮影所はなくなったが大映東京撮影所は角川大映スタジオと名を変えて今も調布市の同じ場所にある。だがその規模は遥かに小さくなっている。
「日本映画最盛期の大映東京撮影所時代は、2013年時点の敷地に加え、隣接する調布南高校も、前の道を挟んで駅方向まで占める大規模マンションもなく、京王相模原線の線路の辺りまでずっと撮影所の敷地。撮影所の門は駅前にあったと言います。敷地内には特撮用のプールがあり、夏になると撮影所スタッフが泳いでいたそうです」
(「調布市立図書館 まちの資料情報館」より)
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国土地理院の航空写真で変遷を辿ってみる。

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1936年(昭和11年)9月(開所3年目)。

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1947年(昭和22年)8月。

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1957年(昭和32年)10月。

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1961年(昭和36年)8月当時。

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1971年(昭和46年)4月(大映倒産の8か月前)。

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1975年(昭和50年)1月。

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現在。

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川口浩と石原裕次郎

1960年に作家の三島由紀夫は俳優として大映映画「からっ風野郎」(増村保造監督)に主演した。この経験をもとに書いたのが「スタア」と言う短編小説だ。 主人公は当時流行の太陽族を思わせる若手人気俳優である。 なので初読以来、てっきりモデルは日活の石原裕次郎だろうと思っていた。しかしあとあと考えてみると、半分は大映の川口浩かもしれないと言う気もする。 「からっ風野郎」も大映だったし、「スタア」には大映の長谷川一夫を思わせる老醜の二枚目俳優も出てくる。そして何より川口自身が裕次郎と並ぶ太陽族俳優だった。
日活の太陽族映画第1作「太陽の季節」が公開されたのは1956年5月。ただし主演は長門裕之と南田洋子であり、裕次郎も出ているがまだチョイ役だ。 1か月後の56年6月、今度は大映で川口浩主演の「処刑の部屋」(市川崑監督)が公開される。川口は4月にデビューしたばかりでこれが2作目だった。 更に1か月後の7月に裕次郎初主演作 「狂った果実」が続く。当時はこの3本が太陽族映画と称され、そこに描かれた若者の不道徳な生態が世間の物議をかもしたと言う。
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その後裕次郎は日活の、川口は大映の若手トップスターになる。裕次郎は言うまでもなく石原慎太郎の弟、かたや川口も直木賞作家で大映重役だった川口松太郎と女優三益愛子の長男と言う七光りもあった。尤も人気では裕次郎が水をあけていたようだが、川口も『巨人と玩具』『おとうと』などの文芸映画に出演して名を高めている。1960年に裕次郎が共演者の北原三枝と結婚すると、同じ年に川口も野添ひとみと結婚。
だが、二人とも自ら望まずに若くしていきなりスターになったせいか長く俳優業を続ける気はなく、特に裕次郎は「俳優は男子一生の仕事にあらず」と公言して憚らなかった。これは当時のお坊ちゃん俳優に共通するのか大スター上原謙の息子である加山雄三も同じようなことを言っていた。実際に川口は1962年、26歳の若さで俳優業から引退し実業家として高級マンション「川口アパート」の経営に乗り出す。一時は俳優業にも復帰し「キイハンター」などに出演するが、70年に川口浩探検隊の前身『ザ・ショック!!』を自ら企画し出演。 一方の裕次郎は斜陽化する映画界を見捨てておけなくなったのか62年に石原プロを立ち上げ映画製作にのめり込んでいき70年代はテレビドラマ「太陽にほえろ」に出演。言葉とは裏腹に俳優業を続けることになっている。個人的な記憶にあるのはこの頃からの二人なので、たまに若い頃の映画をテレビで見ても同一人物に見えなかった。精悍なアクションスターだった裕次郎が当時は顔色の悪い浮腫んだ中年になっており、お坊ちゃん顔だった川口がジャングルを切り進むカーリーヘアの探検隊長になっていたからだ。
同じ年に太陽族スターとしてデビューしてその後違う道を歩いた二人は奇しくも同じ年に亡くなっている。1987年7月に52歳で亡くなった裕次郎の葬儀は盛大を極めたが、4か月後に51歳で亡くなった川口の方も「探検隊長」としての知名度の高さでそれなりの話題になった。
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高校三年生

喜劇ほどではないが、大映は青春物もあまり得意ではなかったようだ。1962年のニューフェイスで青春スターとして売り出された倉石功によれば、 「青春物に重きを置いていなかった永田雅一社長の鶴の一声」で中止になってしまった映画もあると言う。 そのため折角釣り上げた大魚を逃してしまったこともある。 1963年にデビュー曲「高校三年生」を大ヒットさせた舟木一夫だ。 前の記事でも書いたように当時はヒット曲にあやかった歌謡映画が流行っていた。 既に大映も御三家の先輩・橋幸夫のヒット曲「潮来笠」などを立て続けに映画化していた。 「高校三年生」も大映で映画化されることになり、舟木の故郷一宮でロケして63年11月に公開された。 ただし主演は倉石功と姿美千子、高田美和の大映青春スターで舟木は助演である。 それでも舟木の人気で映画館に行列ができるほどヒットし、大映では舟木の2曲目「修学旅行」も映画化する予定だった。 ところが大映では社長の永田が全ての決定権を握っている上、肝心の永田は海外出張中だった。 そのため最終決定が遅れてモタモタしているうちに、しびれを切らした舟木の事務所が日活に話を持ち込んでしまう。 以降、舟木のヒット曲は日活で映画化されることになった。
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大映の興亡

一言で大映を言えば「永田雅一が興し、そして潰した会社」に尽きる。大映は戦争で生まれた特異な会社だった。他の企業同様に映画会社も戦時統制を受け、当初は松竹、東宝の2社に統合される予定だった。ところが新会社=大映を加えた3社制とするように運動したのが永田雅一だった。更に戦後、他の国策会社同様に大映も解散の運命のはずだったが、またしても永田の工作で大映のみが生き延びた。つまり永田なくして大映はなかった。だが国策メーカーと言う出自が後々致命的欠陥にもなる。戦時中は映画配給が公社に一元化されていたため大映は製作だけしていればよかった。しかし戦後、各社の自主配給制になっても興行力の強化には不熱心だった。「いい映画さえ作っていれば必ず客が来る」と言う素朴なカツドウ屋気質が抜けなかったのだ。従って他社のような経営多角化も行わなかった。
そのくせ大映は映画会社としてのカラーがはっきりしなかった。松竹なら家庭劇、東宝はサラリーマン劇のように特徴が一言で言えるが、もともと国策で人為的に生まれた大映にはそれがなかったのだ。強いて言えば旧日活を継承した時代劇の会社ということになる。だが その一方で芸術志向も強いため、後発の東映がより大衆娯楽的な時代劇を売り物にするようになると大映の旗色は悪くなる。永田は嘆いて「大衆は大映のカステラより東映の饅頭を好む」と警句を吐いたものだ。社長は派手好きで下品なのに不思議と映画は地味に上品で真面目なのだ。それが末期に他社との差となって出た。
1960年代、日本映画界はどこも苦しかったが、東映はやくざ映画で乗り切り、松竹と東宝は喜劇映画で凌いだ。 だが大映にはどちらもできなかった。東映の真似をしてやくざ映画を作ったが、上品な大映には東映ほど迫力がない。しかも大映には喜劇が作れない。 大映は時代劇あり文芸物あり現代劇のサスペンス物あり、そして特撮もありとジャンルの広い会社だったのに、何故か喜劇だけは全くダメ。 いい例がクレイジーキャッツの使い方だ。クレイジー映画を最初に作ったのは大映だったが、クレイジーは添え物に過ぎず、ヒット曲を素材に使っただけの歌謡映画に過ぎなかったため失敗。やがて東宝に転じたクレイジーは東宝のドル箱になった。東宝には他にも社長シリーズや駅前シリーズがあり、松竹にも旅行シリーズやドリフの全員集合シリーズあり、そして最大のドル箱「男はつらいよ」シリーズに至るが、大映は最後まで一本のヒット作も作れなった。

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