13人の金田一耕助

横溝正史が創造した名探偵・金田一耕助は、1946年(昭和21年)4月から同年12月まで雑誌『宝石』に連載された「本陣殺人事件」で初登場した。翌年映画化され、以後、映像で金田一耕助を演じた俳優は、映画・テレビを合わせて現在まで26人にのぼる。内訳は映画13人、テレビ15人である。合計人数が合わないのは、後述するように映画とテレビの両方で演じた俳優が2人ダブっているからである。ここでは映画になった13人の金田一耕助について語ってみたい。

片岡千恵蔵
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「本陣殺人事件」は発表翌年の47年に東横映画(後の東映)で「三本指の男」として映画化され、片岡千恵蔵が記念すべき初代金田一耕助を演じている。千恵蔵金田一はシリーズ化され56年までに最多の7本製作されたが、ソフト帽にスーツ姿で美人秘書を連れ、拳銃をぶっ放す颯爽としたヒーローとして描かれたために、原作とはかけ離れた姿で定着してしまうのである。このことは千恵蔵本人も心苦しく思っていたようで、後に「原作者には申し訳なかった」と振り返っている。

岡譲二
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大映は東横より先に「本陣殺人事件」の映画化を企画していたが、トリックが複雑なために断念し、平行連載されていた「蝶々殺人事件」を代わりに映画化した。「本陣」で金田一を演じる予定だった岡譲二も「蝶々」にスライド主演したが、こちらの探偵は金田一ではなかった。それから5年後、大映の「毒蛇島奇談・女王蜂」(52年) で千恵蔵に続く二代目金田一を岡が演じた。岡は後に横溝作品の初テレビ化である「月曜日の秘密」シリーズ(57年、日本テレビ)でも再び金田一を演じ、 映画の初代は逃したがテレビの初代金田一の栄に浴している。

河津清三郎
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千恵蔵が確立したスタイルは映画会社が変わっても受け継がれ、東宝で河津清三郎が演じた「幽霊男」(54年)の金田一もソフト帽スーツ姿で拳銃を手にした金田一だった。尤も都会派スリラーである本作の場合の探偵役は洋装のほうが都合が良かったことも事実だろう。

池部良
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ここまで3代の金田一役者の実年齢は40代で恰幅のいいおじさん然とした風貌だったが、「吸血蛾」(56年、東宝)で演じた池部良は当時38歳でスマートな金田一である。ただ見た目ほどには役立たずなのが惜しまれる。個人的に良ちゃんには金田一より明智小五郎を演じて欲しかったと思うのである。

高倉健
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東映のシリーズは片岡千恵蔵からのバトンタッチで、デビュー6年目で30歳の高倉健が「悪魔の手毬唄」(61年)で歴代最年少の金田一を演じた。時代を反映してか健さんの金田一は従来のスーツ姿ではなく、サングラスをかけスポーツカーを乗り回す現代青年として描かれている。しかし社会派推理の流行で時代遅れになってしまった金田一映画は、これを最後に暫くの間、眠りにつくことになる。

中尾彬
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70年代に入ると横溝人気は徐々に復活し、映画の金田一も75年に「本陣殺人事件」(ATG)で14年振りに復活した。ただし時代は現代に置き換えられたため中尾彬演じる金田一はジーパン姿の70年代青年風である。とは言え原作に忠実だし、どこか異端の雰囲気を漂わせるシャイな中尾金田一にも好感が持てる。個人的には金田一映画のベスト1だと思っている。

石坂浩二
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テレビも含めた映像化史上、初めて原作通りにフケを飛ばす長髪とよれよれの着物姿でビジュアル化されたのが76年の「犬神家の一族」(角川春樹事務所)で市川崑監督が描いた石坂金田一だった。言わば映像における金田一ルネッサンスと言ってよい。市川×石坂コンビによる金田一シリーズは2作目から東宝に河岸を変えて79年までに計5本製作され、以後のスタンダードなスタイルになるのである。

渥美清
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松竹の「八つ墓村」(77年)ではまた現代が舞台となり、渥美清が演じたのは麦藁帽で腰に手ぬぐい姿の金田一だった。その渥美を金田一役に推したのは原作者の横溝正史である。横溝は自らの原作をTV化した65年の「人形佐七捕物帳」(NHK)で子分の辰を好演した渥美を覚えており、 松竹の製作者に「おたくがやるなら渥美しかいないだろう」と述べたと言う。当時、渥美も「寅さん」一辺倒のマンネリから脱却を図っており、金田一役には乗り気だった。だが世間の持つ「渥美清=寅さん」のイメージには強固なものがあった。個人的にも当時映画館でスクリーンに渥美金田一が登場するや否や「寅さんだ」とばかりに館内で笑いが起ったことは忘れもしない。映画は大ヒットしシリーズ化の話もあったが結局これ1作のみに終わり、渥美は生涯寅さんのまま終わることになる。

西田敏行
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「犬神家の一族」の製作費の問題で東宝と揉めて市川×石坂コンビとも袂を分かった角川春樹が、再び自らプロデュースした東映の「悪魔が来たりて笛を吹く」(79年)で世に送り出したリベンジ金田一である。原作通りに描かれた金田一だったが、肝心の西田敏行がイマイチだったため石坂金田一を凌駕することはできなかった。

古谷一行
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79年、市川×石坂コンビによる東宝の金田一シリーズは「これが最後だ!」と銘打って「病院坂の首縊りの家」を製作したが、金田一映画の本家を自認する角川春樹は、勝手に終わらされてなるものかと「金田一耕助の冒険」(79年)で対抗し、テレビの「横溝正史シリーズ」(77~78年)で金田一を当たり役としていた古谷一行を映画にも登場させた。ただし「人が何人も死ぬまで事件を解決できない金田一耕助」を自虐的パロディで演じているので、まともな映画ではない。はっきり言わせて貰うと、映画を見てこれほど時間を無駄に思ったことはない。

三船敏郎
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上記「金田一耕助の冒険」の劇中で上映される昔の無声映画「瞳の中の女」に登場した異色の金田一。演じているのはなんと大スターの三船敏郎である。三船プロが製作協力していることによる、三船社長のサービスなのだろうが、当時は世界のミフネも地に落ちたと思ったものである。

鹿賀丈史
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既に横溝ブームも終焉近かった81年に角川春樹が「悪霊島」で世に送り出した金田一。横溝正史がこの年の暮れに死去したため原作者の生前最後に映像化された金田一になった。横溝と言うより角川青春映画の色彩が濃い珍品である。テレビ化はこの後も2時間ドラマを中心に続くが、映画はまた暫く休眠となる。

豊川悦司
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17年振りの市川崑監督による「八つ墓村」(96年、東宝)に登場した。個人的な好悪を言わせて貰うと、なよなよした実に気持ちの悪い金田一である。基本的には石坂金田一と同じ演技をしているのだが、個性の違う豊川に同じことをさせても様になるはずがない。実のところ市川監督は過去のシリーズ同様に石坂を起用するつもりだったのだが、製作側から強引に当時人気絶頂のトヨエツを押し付けられてしまったと言う。つまり鼻からミスキャストの金田一だったのである。これに懲りた市川は10年後の2006年に「犬神家の一族」リメイクの話が持ち上がった時には「石坂でなければやらない」と宣言して今度は押し通した。現時点ではその「犬神家」リメイク版が最後の金田一映画になっており、結局のところ映画の金田一は石坂に始まり石坂に終わった感がある。
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大映俳優列伝(67)岡譲二


金田一敦子から金田一繋がりで、今回は名探偵・金田一耕助を演じたことがある岡譲二である。
1902年(明治35年)生まれ。祖父は佐賀藩の勘定方を務め、父は三十五銀行の頭取だったと言う。立教大学商科を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する。26歳で部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の薦めを受けて退社し、日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社した。デビュー作は28年(昭和3年)の「維新の京洛 竜の巻 虎の巻」島津久光役で、当時の芸名は美濃部進だった。29年の「赤い灯青い灯」で主演に抜擢されスター俳優として活躍するが、31年に既婚者の女優・澤蘭子と恋愛・失踪事件を起こしたために退社を余儀なくされる。 同年、松竹蒲田撮影所に入社して「岡譲二」と改名し、ここでもスターになるが、恩人の野村芳亭監督の急死をきっかけに退社。協同映画を経て35年、日活多摩川撮影所に入社する。37年に渡辺邦男監督とともに退社してP.C.L.映画製作所へと移籍。同社の統合合併による東宝映画設立で東宝映画東京撮影所に所属した。
この頃に澤蘭子との内縁関係を解消し、38年に新橋の名妓・秀菊と結婚して一男二女をもうけた。ちなみに長男は後に真山譲次の芸名で俳優となり、東映の特撮TV「人造人間キカイダー」(72年、NET)ではキカイダーの宿敵ハカイダーの人間体であるサブロー役を演じた。
戦時中は3度の徴兵を受けて、最後は台北で終戦を迎えた。戦後、復員して東宝に復帰するが、東宝争議で47年に大映と契約。「裁かれる愛情」で大映初主演ののち、横溝正史原作の「蝶々殺人事件」を映画化した「蝶々失踪事件」に主演した。
実はこれに先立って大映では、金田一耕助のデビュー作にあたる「本陣殺人事件」の映画化を岡の金田一役で検討していたのだが、トリックが複雑なために断念したと言う経緯がある。結局、「本陣殺人事件」は東横映画(後の東映)が片岡千恵蔵を金田一役に「三本指の男」と言うタイトルで映画化したために、岡は初代金田一役の栄誉を逃すことになったが、大映は「本陣」の代わりに「蝶々殺人事件」を映画化し、主役の由利警部に岡を起用したのである。なお、由利麟太郎は戦前から活躍していた、金田一と並ぶ横溝作品のもう1人の探偵役である。
50年に江戸川乱歩原作の「氷柱の美女」で明智小五郎役を演じたのに続き、52年には横溝原作による「毒蛇島奇談・女王蜂」で遂に念願の(?)金田一役を演じる。金田一耕助と言えば現在では原作通りの着物姿が定着しているが、初代の片岡千恵蔵がソフト帽にスーツ姿で拳銃を使い、変装までするという颯爽とした活劇ヒーロー像を確立していたことから、岡の二代目金田一も千恵蔵を踏襲したスタイルになっている。
ちなみに岡以外で明智と金田一の両方を演じたことがある俳優は小野寺昭、稲垣吾郎の2人、そして金田一と由利の両方を演じた俳優には石坂浩二がいるが、明智と金田一、由利の3人を演じたのは岡譲二ただ1人である。由利物の横溝作品は映像化される機会が少ない(映像化されても探偵役は金田一に置き換えられてしまう)ので、おそらく今後もこの三大名探偵役を制覇する俳優は現れないのではないかと思う。岡は横溝作品とは不思議と縁があり、54年には千恵蔵主演の「悪魔が来りて笛を吹く」(東映)、河津清三郎が金田一を演じた「幽霊男」(東宝)にもそれぞれ別の役で出演している。更に57年、横溝作品の最初のテレビ化である「月曜日の秘密」シリーズ(日本テレビ、全11回)でも再び金田一を演じていて、そのうちの2話では自ら脚本も執筆している。
53年からは脇に回り、新東宝、東映、大映の各社に出演した。キネマ旬報社の『日本映画俳優全集』では60年の「草間の半次郎 霧の中の渡り鳥」(東映)を最後に引退となっているが、映画は66年の「五泊六日」(池部プロ)まで、テレビドラマは69年2月25日放送の「五人の野武士」(日本テレビ)第21話が最後の出演記録になっている。晩年は妻子と別れ、画廊を経営していたという。70年12月に死去。

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「ガメラマーチ」を作詞した永田秀雅

去る10月3日、永田雅一大映社長の息子で大映副社長だった永田秀雅氏が死去した。92歳。
だがこの訃報は元大映宣伝部員の中島氏がブログで伝えたのみで、マスコミでは報じられていない。 まあはっきり言って、半世紀近く前に倒産した会社の元副社長などにニュースバリューはないということなのだろう。 ウィキペディアにも独立の項目はないし、「永田ラッパ」で一世を風靡した父親に比べるとジュニア氏は影の薄い人物である。
個人的に収集した情報によれば、永田秀雅(以下敬称略)は京都府出身で1925年(大正14年)8月23日生まれ。 大学では建築学科に学び、卒業後は戦後復興院(後の建設省)に技官として入省。ラジオ東京(後のTBS)を経て、53年(昭和28年)に父の大映に入社した。 以後、東京撮影所次長、同所長、常務、専務を経て66年に副社長に昇格。父親の後継者としてのレールを歩んでいたが、 71年に大映が倒産した。同年11月29日、社長の父に代わり全業務停止と全従業員解雇を発表したのは副社長の秀雅だった。
ちなみに秀雅の次男・守は元TBSプロデューサーで現在は映画プロデューサーである。2014年度の『キネマ旬報』日本映画ベスト10の第1位を獲得した「そこのみにて光輝く」 の製作者には永田守が名を連ねている。永田雅一は1936年(「祇園の姉妹」)と66年(「白い巨塔」)、そして秀雅も62年(「私は二歳」)に製作者として第1位を獲得しているので、永田家三代がベスト1に輝いたことになる。
と言うわけで映画プロデューサーとしてもそれなりに実績を持っている永田ジュニア氏だが、世間的に知られているのはガメラマーチの作詞者としてだろう。

ガメラシリーズにプロデューサーとして携わり、第3作「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(67年)の主題歌「ガメラの歌」を作詞したのに続いて、第4作「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」(68年)以降シリーズの主題歌となった「ガメラマーチ」を作詞した。昭和ガメラ世代である自分もこの曲を聴くと今でも高揚感が湧いてくるのである。
ついでに言うと、大映の新人俳優に芸名をつけるのもジュニア氏の趣味だったそうである。だが名づけられた本人たちにとっては不本意な芸名も多かったようで、 「炎三四郎」と命名された後の速水亮などは、本気で俳優を辞めようと悩んだと言うことである。
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大映俳優列伝(66)金田一敦子

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ニューフェイスにはあたり年とはずれ年があったようである。これと言ったスターが出なかった年もあるが、1956年(昭和31年)の第10期はあたり年だろう。田宮二郎、石井竜一、叶順子、毛利郁子、市田ひろみ(後に服飾評論家)、そして金田一敦子である。
39年生まれ。金田一と言う姓からもわかるように、言語学者として著名な金田一京助の一族である。『日本映画俳優全集』には「父の叔父」と書いてあるのだが、正確に言えば「父のいとこ叔父(祖母の従兄弟)」にあたる。
ややこしいので系図を書くと、

          ┌勝定-リウ-〇〇-敦子
金田一伊右衛門勝澄―┤
          └ヤス-京助-春彦-秀穂

と言う関係になる。
米穀商として一代で財を成した伊右衛門勝澄の長男・勝定は明治から大正初期に盛岡銀行頭取や岩手軽便鉄道社長などを務めた実業家であった。勝定の妹ヤスの子である京助もこの叔父の援助で育っている。勝定の娘・リウと結婚して婿養子になった国士も養父の後を継ぎ実業家として活躍した。敦子はその孫なのである。
更に松竹で活躍した女優の三宅邦子は叔母にあたると言う。その叔母のすすめで56年、大映の第10期ニューフェイスに応募し合格する。57年4月「忘れじの午後8時13分」に端役で出演した後、同年9月に同期の石井竜一が主演した「健太と黒帯先生」「がんばれ!健太」の二部作で正式デビューした。
その後は「暖流」「猫は知っていた」などに助演し、58年6月「恋を掏った女」で初主演した。「夜霧の滑走路」「恋と花火と消火弾」でも主演・準主演している。ただしいずれも添え物の中編映画であり、「最高殊勲夫人」(若尾文子・川口浩主演)などの文芸大作物になると三番手四番手の役柄しか与えられていない。
59年1月、大ファンだったと言う市川雷蔵が主演の「遊太郎巷談」で時代劇に初出演したのに続き、3月の「若き日の信長」で雷蔵の相手役ヒロインに抜擢される。更に10月の「貴族の階段」では近衛文麿がモデルの貴族政治家・西の丸秀彦(森雅之)の娘・氷見子を演じている。物語は氷見子の目を通して描かれ全編が氷見子の独白ナレーションで進行するので、クレジット上のトップは叶順子だったが実質的には金田一敦子が主役と言っていい。
だが知る限りで印象に残る役はこれぐらいである。殆どの役柄が地で演じられるような良家の令嬢役に限定されているので、「たそがれの東京タワー」「好き好き好き」「嫌い嫌い嫌い」などはいずれも主人公の恋敵役でワンパターンだった。本人に女優をやり抜こうという気持ちが希薄だったらしく、『日本映画俳優全集』にも「箱入り娘として育ったせいか、女優と言う職業に対して欲もファイトも感じられなかった」と辛辣に記されている。
60年4月「大江山酒天童子」を最後に突如引退してしまう。表向きの理由では、次回予定作だった「すれすれ」の役柄がどぎつくベッドシーンまであるのを嫌ったためとされている。未見の作品なので実際にどんなシーンだったのか承知していないが、当時のベッドシーンでそれほど過激なことを要求されたとは思えないのだが…。ちなみに雷蔵とはロマンスの噂があったが、当時の週刊誌によれば家庭的な女性を求める雷蔵の結婚観と合わず破局したそうである。まあゴシップだからあてにはならないけども。

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大映第一フィルムの謎

大映は社内に洋画部を設置して洋画の配給も行っていた。原点は戦後、まだ独立前の1949年(昭和24年)8月に永田雅一社長がアメリカ映画界視察のためいち早く渡米したことである。この際、永田はウォルト・ディズニー及びサミュエル・ゴールドウィンの両プロダクションと配給提携の仮契約を結んだ。翌50年に本契約が成立し、洋画部を設置して7月から本格的な配給業務を開始した。第1回の配給作品はディズニーの長編アニメ「白雪姫」である。以後10年余にわたって「バンビ」「ダンボ」などのディズニー作品を配給した。今60代後半か70歳ぐらいの人が戦後に映画館で見たと言うディズニーの漫画映画の多くは大映の配給だったのである。一方、サミュエル・ゴールドウィンからは「虹を掴む男」「嵐ヶ丘」などのアメリカ映画を配給した。
しかし両社との契約が切れた60年代からはイタリア映画、フランス映画の大半が占めるようになる。その中にはアラン・ドロン主演の「冒険者たち」やマカロニウェスタンなど世に知られた作品もあったが、一方で「イタリア式愛のテクニック」などキワ物めいたお色気映画もあった。そして68年2月で大映は洋画の配給業務を停止してしまうのである。
代わってその年の夏から洋画の配給業務を始めたのが、「大映第一フィルム」なる会社である。大映と名はついているが、大映本体と直接の関係はなかったようで、もともとは「東京第一フィルム」と言う別の輸入映画会社だった。この会社は戦後、黒澤明監督の「羅生門」を買い付けてヴェネツィア映画祭に出品したことで知られる「イタリ・フィルム」が前身である。62年3月に元大映専務の曾我正史に営業譲渡され、翌63年7月、新たに設立されたのが東京第一フィルムなのである。
曾我正史と言えば、58年、永田社長に叛旗を翻して「日映」を立ち上げるべく画策して頓挫した人物である。その曾我が設立した東京第一フィルムが何故大映第一フィルムを名乗るようになったのか、よくわからない。おそらく永田と和解したのだろうが、そのあたりの経緯を語っている資料がないのである。ちなみにウィキペディアに載っている東京第一フィルムの記事からは大映第一フィルム時代の歴史が抜け落ちている。
いずれにしろ大映洋画部による配給業務が停止したのと同時に東京第一フィルムが大映第一フィルムに改称していることからも、両社の間で何らかの提携が成立したことは間違いないのだろう。大映第一フィルムは以後「禁断の夜」「完全なる結婚」などのエロ映画や「小さな目撃者」などを配給するが、やがて71年末に大映が倒産する。しかしもともと別会社であった大映第一フィルムに波及することはなく、翌72年1月から再び元の東京第一フィルムへ社名を戻して活動を続けている。76年、「第一フィルム」に社名を変更するが、その年限りで事実上活動停止状態になったようである。
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