雅羅倶多館

1960~80年代のテレビドラマや映画を中心にあらすじや感想を書いています。

小笠原まり子と藤田まこと

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小笠原まり子は1941年(昭和16年)生まれ。真偽は不明だが、下記ブログに載っている澤田隆治(「てなもんや三度笠」のディレクター)の話によれば、藤田まことの腹違いの妹なのだと言う。
http://blog.fmyokohama.jp/ckb/2011/12/20111224-f218.html
事実なら藤田の父で戦前の映画スターだった藤間林太郎の娘でもあったことになるが、自分の知る限り『日本映画俳優全集』をはじめとする藤田や藤間のプロフィールで小笠原まり子の存在に触れている記述はない。
藤田の実母は藤田が3歳の時に亡くなり、父の藤間は41年に再婚している。日外アソシエーツ『新撰 芸能人物事典 明治~平成』によれば、藤田は藤間の2男2女の3番目なので、4番目の子が異母妹のまり子なのかもしれない。尤も顔立ちは藤田や藤間と似ているようには見えない。
48年、7歳の時にマキノ映画が製作した実写版「サザエさん」(荒井良平監督)にワカメ役で出演した。 「サザエさん」の実写映画と言えば、江利チエミ主演の東宝のシリーズ(計10作、1956-1961年)が有名だが、それより8年早い最初の実写化なのである。 製作の「マキノ映画」とはマキノ眞三(牧野省三の三男)が妻の女優・宮城千賀子と設立した会社で、「サザエさん」はその3作目だった。 ちなみにマキノ映画1作目の「暗黒街の天使」(47年)と2作目の「桜御殿」(48年)には藤間林太郎も出演している。小笠原まり子が藤間の娘だとすれば、「サザエさん」への出演はその関係だったのかもしれない。
なお、サザエさん役は東屋トン子と言う聞き慣れない女優だが、宮城千賀子とは宝塚の同期生だったそうだ。 マキノ映画は間もなく解散してしまったが、2年後の50年には全く同じキャストとスタッフで「サザエさん のど自慢歌合戦」が東洋スタジオにより製作され大映の配給で公開されている。
51年の松竹映画「とんぼ返り道中」や54年の「美男天狗党」を経て、56年に「娘の修学旅行」で大映に初出演した。以後は大映専属となり、「最高殊勲夫人」(58年)、「一刀斎は背番号6」(59年)、「女経」(60年)、「瘋癲老人日記」(62年)などに脇役で出演した。当初の役柄は女学生役が多かったが、後半は大半が女中や旅館の仲居役である。テレビ室製作のドラマ「少年ジェット」第1部「黒い影」(1959年、フジテレビ)にも浅岡家の女中・お栗ちゃん役で出演している。
64年の「芸者学校」を最後に大映を退社した模様で、この映画には藤田まことも出演している。
その後はテレビに転じ、66年10月には、テイチクから「とても辛いのお兄さん」と言う曲で歌手としてもデビューしている。
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曲の合間に藤田まことによる「台詞」が入るのだが、タイトルの「お兄さん」が直接藤田を意味するのかどうかわからない。どういうわけかA面では「小笠原まりこ」だがB面の「女の旅路」のほうは「小笠原まり子」名義になっている。以後のドラマ出演時にも「まりこ」だったり「まり子」だったり表記が一定しない。
「おさな妻」(70年、東京12チャンネル)、「5年3組魔法組」(76年、NET)、「人間の証明」(78年、TBS)、「大江戸捜査網」(77年、東京12チャンネル)、「西遊記II」(79年、日本テレビ)、「ウルトラマン80」(81年、TBS)、「鬼平犯科帳」(81年、テレビ朝日)などに出演し、後年は母親役を演じることが多かった。NHK大河ドラマの「おんな太閤記」(81年)「峠の群像」(82年)「春の波涛」(85年)にも出演しているが、ここでは相変わらず女中役だった。
98年(平成10年)に東海テレビ制作の昼ドラマ「はるちゃん2」(フジテレビ) に老仲居役でレギュラー出演したのを最後に出演記録が確認できない。現在はリンク切れになっているが映像実演権利者合同機構のサイトに掲載されていた「西遊記II」出演者リストでは2007年時点で既に故人とされていた。藤田まことが2010年2月に亡くなった時も異母妹に関する報道はなかったようだ。

関連タグ: 大映

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ガメラシリーズの助監督・阿部志馬

特撮映画では本編と特撮の監督やスタッフが別なのは映画ファンならずとも知っている。大映のガメラシリーズの場合、2作目の「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(66年)を除き湯浅憲明が本編と特撮の両方の監督を兼任していたが、助監督以下のスタッフはそれぞれ別である。だが、本編にしろ特撮班にしろ普通の映画の2倍近く時間が掛かるため助監督には敬遠されたと言う。
その面倒なガメラシリーズのほぼ全作で特撮班のチーフ助監督を務めていたのは阿部志馬と言う助監督である。最終作「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(71年)で本編側のチーフ助監督だった明瀬正美によれば、阿部は湯浅と同期ぐらいの助監督で気心が知れているので起用されていたらしい。
ちなみに助監督にも2種類いて、監督に昇進するタイプと万年助監督で監督の女房役に徹するタイプがある。中には監督に昇進しても適性がないと助監督に戻されたり、事務系統に配置転換されるケースもあったと言う。そういう意味では湯浅の下で面倒な特撮の助監督をずっと担い続けた阿部志馬はおそらく女房役タイプだったのだろう。
湯浅憲明は57年入社で、同期の助監督にはほかに帶盛廸彦や臼坂礼次郎、岡崎明、石井岩太郎がいた。入社7年目の64年には監督に昇進しているが、帶盛が68年、臼坂が69年、岡崎が70年、そして石井が71年の倒産間際になってようやく1本監督できただけだったのに比べるとかなり早かったことになる。湯浅は大映の脇役俳優だった星ひかるの息子だが、別にそれが監督昇進に影響したわけではないだろう。それならば監督になれず仕舞だった阿部志馬の両親の方がもっと大物だったからだ。『映画芸術』に掲載されていた元・大井武蔵野館の支配人・細谷隆広のインタビューによると、阿部は戦前の人気スターだった梅村蓉子の息子らしい。
梅村蓉子は1903年(明治36年)生まれの女優である。22年に松竹蒲田撮影所に入り、25年日活に移籍。26年の「紙人形春の囁き」以来、溝口健二監督の作品の常連として「日本橋」(29年)「唐人お吉」(30年)「祇園の姉妹」(36年)「浪華悲歌」(36年)などに主役または準主役で出演した。
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右が梅村蓉子(左は山田五十鈴)
35年に永田雅一が立ち上げた第一映画の設立に参加し、その後も永田と行動をともにして新興キネマ、大映京都撮影所に所属した。大映の第3作目である「山参道」(42年)では星ひかるとも共演しているのが確認できる。44年、溝口監督の「団十郎三代」に出演したが、その撮影中に急性盲腸炎にかかり40歳で急死した。
私生活ではこの間の29年に、当時助監督だった竹久新(本名・阿部隆)と結婚している。32年には1児を出産しているが、阿部志馬が33年生まれの湯浅憲明とほぼ同期だったと言う年配からして、これがおそらく志馬なのであろう。夫の竹久は38年まで監督を務めたのち営業畑に転じ、戦後は武蔵野映画劇場株式会社(現・武蔵野興業)に入社して役員となり興行界で活躍した。前出の細谷隆広が武蔵野推理劇場にいたときに支配人としてきたのが阿部志馬で、父親のツテを頼って来たと言う。1955年生まれの細谷が大学を出て間もない頃というから、70年代末頃の話だろう。71年の大映倒産後に臼坂や石井は山本薩夫の息子の山本洋などともに再建闘争を経て新生・徳間大映に入ったが、阿部は武蔵野推理劇場に行くまでの間どうしていたのかわからない。父親の竹久は80年に武蔵野興業の常務現職のまま亡くなったが、阿部志馬のその後の消息は不明のようだ。

関連タグ: 大映 ガメラ

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三島由紀夫と天知茂の「明智小五郎」

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原作原理主義者の江戸川乱歩ファンには天知茂が演じた明智小五郎を嫌う人も少なくないようだ。確かに天知茂は原作の明智小五郎のイメージとは違う。 尤も、原作に描かれた明智小五郎自体が何度も変貌しているので、何を以って原作の明智像と言うのかイマイチはっきりしないけども。ただ、現在に至る明智小五郎のイメージを決定付けたのは、 乱歩自身よりむしろ三島由紀夫だったのではないかと思う。
三島由紀夫が乱歩の「黒蜥蜴」を劇化したのは1962年、初演では黒蜥蜴=水谷八重子、明智小五郎=芥川比呂志が演じ、同時に大映で映画化もされた(黒蜥蜴=京マチ子、明智=大木実)。 そして2度目の舞台化が1968年で、この時に三島の依頼で初めて黒蜥蜴を丸山明宏(美輪明宏)が、そして明智小五郎を天知茂が演じた。
三島はこの舞台化における明智小五郎役者の条件を「このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、風貌、年格好、技術で、 とてもチンピラ人気役者では追いつかない」と断じ、その条件に適う役者として「映画『四谷怪談』の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門」以来のファンだったという天知茂を抜擢したのだ。ちなみに舞台は当時テレビ中継もされたが、残念ながらその録画テープは現存しないようだ。 だが三島によって解釈され天知によって具現化された「このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人」と言う明智小五郎のイメージは、 更に天知茂が後にテレビの「江戸川乱歩の美女シリーズ」で明智小五郎を演じ続けたことで広く世間に浸透して行った。 以後、誰が明智小五郎を演じるにしても三島と天知が雛形を作った明智像を以って王道とするようになってしまったのは当然だろう。
その天知茂が三島由紀夫について語っている映像が存在する。

1984年9月13日放映の『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日)第23回「三島由紀夫自決事件」に「証言者」の一人として録画出演している。
1分足らずの短い映像だが、当時たまたまこの番組を見ていたので、トレードマークの眉間の皺が消えた柔和な表情で語る素の天知さんの姿に驚いたものだ。 天知さんが亡くなったのはこの10ヶ月後である。

関連タグ: 天知茂 江戸川乱歩 三島由紀夫

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ダイニチ映配メモ


1970年代初頭、ともに経営危機に陥った大映と日活が弱者連合を組んだのが「ダイニチ映配」だった。
両社提携の経緯について田中純一郎の『日本映画発達史』には「前年度(69年)後半頃から大映側より提案があり」と記されているが、毎日新聞連載の「馬場正男と撮影所・京都カツドウ屋60年」によれば「日活は松竹に話を持ちかけたものの、色よい返事がもらえず大映に乗り換えた」のだと言う。
いずれにしても製作能力の落ちた両社は配給系統館を維持する目的で提携を結び、70年3月に共同配給会社「ダイニチ映配」設立を発表した。映画館の系列を一本化し、10日間興行で月6本(それぞれ3本ずつ)を製作して抱き合わせで公開すると言うもので、最低でも年間配給収入50億円、月額1000万円の黒字という皮算用を立てて6月第1週(5月30日公開)からスタートした。

1970/05/30 ■太陽は見た(大映)渥美マリ ■盛り場流し唄 新宿の女(日活)北林早苗
1970/06/10 ■女秘密調査員 唇に賭けろ(大映)江波杏子 ■鮮血の記録(日活)小林旭
1970/06/20 ■怪談累が渕(大映)石山律 ■怪談昇り竜(日活)梶芽衣子
1970/07/01 ■夜のいそぎんちゃく(大映)渥美マリ ■十代の妊娠(大映)南美川洋子
1970/07/11 ■やくざ絶唱(大映)勝新太郎 ■女の警察 乱れ蝶(日活)小林旭
1970/07/22 ■反逆のメロディー(日活)原田芳雄 ■あしたのジョー(新国劇映画=日活)石橋正次
1970/08/01 ■野良猫ロック ワイルドジャンボ(ホリ企画=日活)梶芽衣子 ■ハレンチ学園 身体検査の巻(日活)児島みゆき
1970/08/12 ■座頭市あばれ火祭り(勝プロ=大映)勝新太郎 ■スパルタ教育 くたばれ親父(日活)石原裕次郎
1970/08/22 ■でんきくらげ 可愛い悪魔(大映)渥美マリ ■高校生ブルース(大映)関根恵子
1970/09/01 ■野良猫ロック セックスハンター(日活)梶芽衣子 ■大幹部 ケリをつけろ(日活)渡哲也
1970/09/12 ■高校生番長 棒立てあそび(大映)南美川洋子 ■ハレンチ学園 タックルキスの巻(日活)児島みゆき
1970/09/23 ■ボクは五才(大映)岡本健 ■ママいつまでも生きてね(大映)中村光輝
1970/10/03 ■しびれくらげ(大映)渥美マリ ■一度は行きたい女風呂(日活)浜田光夫
1970/10/14 ■おんな牢秘図(大映)田村正和 ■ネオン警察 ジャックの刺青(日活)小林旭
1970/10/24 ■高校生番長 深夜放送(大映)八並映子 ■新宿アウトロー ぶっ飛ばせ(日活)渡哲也
1970/11/12※(1) ■おさな妻(大映)関根恵子 ■女子学園 悪い遊び(日活)夏純子
1970/11/14※(1) ■喧嘩屋一代どでかい奴(大映)勝新太郎 ■土忍記 風の天狗(日活)高橋英樹
1970/11/22 ■裸でだっこ(大映)渥美マリ ■野良猫ロック マシン・アニマル(日活)梶芽衣子
1970/12/05 ■皆殺しのスキャット(大映)松方弘樹 ■ネオン警察 女は夜の匂い(日活)小林旭
1970/12/15 ■高校生番長 ズベ公正統派(大映)八並映子 ■女子学園 ヤバイ卒業(日活)夏純子
1970/12/25 ■可愛い悪魔 いいものあげる(大映)渥美マリ ■新・高校生ブルース(大映)関根恵子
1971/01/03 ■野良猫ロック 暴走集団’71(日活)梶芽衣子 ■新・ハレンチ学園(日活)渡辺やよい
1971/01/13 ■新座頭市破れ!唐人剣(勝プロ=大映)勝新太郎 ■男の世界(石原プロ=日活)石原裕次郎
1971/01/27 ■すっぽん女番長(大映)八並映子 ■女子学園 おとなの遊び(日活)夏純子
1971/02/06 ■関東流れ者(日活)渡哲也  ■夜の最前線 東京(秘)地帯 (日活)岡崎二朗
1971/02/17 ■新女賭博師壺ぐれ肌(大映)江波杏子 ■タリラリラン高校生(大映)峰岸隆之介
1971/03/06 ■高校生心中 純愛(大映)関根恵子 ■男一匹ガキ大将(勝プロ=大映)酒井修
1971/03/20 ■喜劇 いじわる大障害(日活)岡崎二朗 ■三人の女 夜の蝶(日活)松原智恵子
1971/04/03 ■公式長編記録映画 日本万国博(ニュース映画製作者連盟)
1971/04/24 ■関東幹部会(日活)渡哲也 ■谷岡ヤスジのメッタメタガキ道講座(日活)三波伸介
1971/05/05※(2) ■樹氷悲歌(大映)関根恵子 ■君は海を見たか(大映)天知茂
1971/05/05※(2) ■女の意地(日活)松原智恵子 ■暴力団 乗り込み(日活)小林旭
1971/05/26 ■狐のくれた赤ん坊(大映)勝新太郎 ■秘録長崎おんな牢(大映)川崎あかね
1971/06/10 ■組織暴力 流血の抗争(日活)宍戸錠  ■渡世人 命の捨て場 (日活)高橋英樹
1971/06/23 ■モナリザお京(大映)渥美マリ ■十七才の成人式(大映)八並映子
1971/07/03 ■関東破門状(日活)渡哲也 ■喜劇 男の顔は人生よ(日活)三波伸介
1971/07/17 ■ガメラ対深海怪獣ジグラ(大映)坂上也寸志 ■赤胴鈴之助 三つ目の鳥人(大映)リバイバル上映 ■東海道お化け道中or妖怪大戦争or大魔神怒る(大映、地域によっていずれか1本)リバイバル上映※(3)
1971/07/31 ■逆縁三つ盃(日活)高橋英樹 ■極楽坊主 (日活)宍戸錠
1971/08/12 ■顔役(勝プロ=大映)勝新太郎 ■荒野の復讐鬼(イタリア映画、日本語吹替版)
1971/08/25 ■八月の濡れた砂(日活)村野武範 ■不良少女 魔子(日活)夏純子
1971/09/04 ■遊び(大映)関根恵子 ■夜の診察室(大映)松坂慶子
1971/09/18 ■朝霧(日活、製作は68年)和泉雅子  ■夕陽の丘(日活)リバイバル上映 ■非行少年(日活)リバイバル上映※(4)
日本映画情報システム(文化庁)データベースなどを参考に作成。

70年は12月末までの7か月間で42本(大映22本、日活20本)、翌71年は9月までに41本(大映新作14本+旧作2本、日活新作21本+旧作2本、記録映画1本、洋画1本)、計83本を配給したが、実収は予想を大きく下回り、この間に両社の経営は悪化の一途をたどった。
71年6月に日活の堀久作社長が辞任し、後任の長男・雅彦新社長は映画製作中断を決定した。このためダイニチは存続不可能になり9月末で幕を閉じた。11月から製作を再開した日活はポルノに転向して生き延びたが、自主配給に戻った大映は年を越せずに倒産の末路を迎えた。


※(1)公開日の元データがたぶん間違っている。
※(2)これもどちらか間違いだろう。
※(3)はSFMOVIEDATABANKによる。ちなみに自分の地元では「妖怪大戦争」だった記憶がある。
※(4)「朝霧」はお蔵入りしていた作品。なおウィキペディアには日活単独配給と記してあるが各種の映画データベースや上記『日本映画発達史』「馬場正男と撮影所・京都カツドウ屋60年」などはいずれもダイニチ配給としている。

関連タグ: 大映 日活

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

谷ゆき子のバレエ漫画

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「超展開バレエマンガ 谷ゆき子の世界」(2016年)「完全復刻・超展開バレエマンガ バレエ星」(17年)立東舎刊

"幻の漫画家"谷ゆき子の紹介本と復刻本である。

谷ゆき子は1960年代後半から70年代中盤にかけての約10年間、つまり昭和40年代に「小学二年生」など小学館の各学年誌で複数のバレエ漫画を連載していた漫画家だった。読者の対象年齢で言うと現在の50代(自分もその一人)が小学生だった時代である。
それぞれの作品はたいていの場合「小学一年生」1月号あたりから連載がスタートして、「小学二年生」「小学三生」と学年が上がっても続き、「小学四年生」で完結していた。作者の側から言うと、谷ゆき子は常時「小学二年生」「小学三生」「小学四年生」の3誌に掛け持ちでバレエ漫画を描いていたわけである。

*学年誌に掲載された谷ゆき子の漫画(左は対象読者)
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内容的には、どの作品も殆ど同じようなストーリーだったようである。
まず主人公はバレリーナを目指す少女で、小さい妹がいる場合が多い。母親は元バレリーナで、どういうわけか父親はいない。しかもその母親が突然死んだり記憶喪失で行方不明になったりして、主人公(と妹)は貧乏やみなし児になってしまうのである。
一方でバレエの修行は、何故か滝に打たれたり断崖絶壁の上で練習したりと、意味不明で過酷なものばかり。更に主人公には必ずいじわるなライバルがいて、いじめやいやがらせを受け、時には生死も危うい目にさえ遭う。
こうして次々起り来るもろもろの不幸と試練に耐えながらも、主人公は立派なバレリーナを目指すのだ。まるで後年の大映ドラマを髣髴とさせるストーリー展開だったのだが、読者である全国の小学生は毎回主人公の悲しい運命に胸を痛めその行く末を案じながら、読んだものなのである。
ちなみに少女漫画だからメインの読者は女の子だったのだろうが、勿論自分のような男の子でも読んでいた。谷ゆき子のバレエ漫画は当時の学年誌で藤子不二雄の「ドラえもん」と並び絶大な人気を誇っていたのである。
ところがそれほどの存在でありながら、いつしか幻の漫画家になってしまった。
原因はまず、ほぼ学年誌でしか活動しなかったので、当時の学年誌の読者以外は作品を目にする機会がなかったことにある。しかも、76年に学年誌での活動が終了すると、その後は一般の少女漫画雑誌に進出することもなく、ぷっつりと消息を絶ってしまった。そして何故か作品はただの一度も出版されたことがないために当時の読者の遠い記憶の中にのみ存在する漫画家と化してしまったのだ。
だが、インターネットの時代になると、少しずつ断片的な情報が入るようになり、やがて谷ゆき子が既に亡くなっていることなどが判明した。中でも最も衝撃的だったのは、谷ゆき子は生前に作品の原画を悉く処分してしまい、小学館にも一切残っていないと言う事実だった。どうりで出版されないはずで、しようにもできなかったのだ(現に、当時の担当編集者が出版を企画したこともあったが、原画を発見できずに断念したらしい)。
そう言うわけで、もう二度と谷ゆき子の作品を見ることはできないと思っていたのだが、一昨年に谷ゆき子の作品と人となりを詳しく紹介した「谷ゆき子の世界」が出版され、関係者や遺族などの証言でストーリーの制作秘話や谷ゆき子が繊細な絵柄とは裏腹に意外な性格の人だったことがわかった。
これだけでも驚きだったのだが、更に昨年には、遂に学年誌連載作品のひとつである「バレエ星」が単行本化されたのだ。「バレエ星」は「小学二年生」1969年1月号~「小学四年生」1971年12月号連載なので、実にほぼ半世紀ぶりの復刻になったわけだ。
原画が存在しないため、復刻には当時の掲載学年誌からスキャンして起こす作業が行われたようである。おかげでページの欄外に印刷された読者からの投稿「かすみちゃん(主人公の名前)、まけないでね」や「わたしは『バレエ星』をよむと、なみだがぼろぼろでます」等等や、編集者が書いたアオリ文句まで復刻されているので、当時の学年誌の雰囲気もわかって面白い。ただ作業に要する金と時間と手間を考えると、全ての学年誌掲載作品を復刻して刊行するのは難しいかもしれない。
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ちなみにこれは「小学二年生」1968年12月号の付録だったソノシート「白鳥の星の歌」


「白鳥の星」は「バレエ星」世代より1学年上の子が読んでいた「小学二年生」1968年4月号~「小学四年生」1970年8月号に連載された作品だが、別にアニメ化されたわけでもないのに何故かソノシートのみの主題歌が存在したのである(それにしてもなんて暗い歌だ・・・)。 ほかにも学年誌の付録には主人公の着せ替え紙人形などがあったようだ。

参考リンク:
小学館の学年誌におけるバレエ漫画・絵物語と関連記事リスト
学年誌まんが照会


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