大映俳優列伝(31)三条江梨子(三条魔子)

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邦画全盛時代には五社協定と専属制があったため他社から移籍して来る俳優は少なかった。スターであれば尚更である。だが例外もある。会社そのものが消滅した場合だ。
1961年(昭和36年)8月に新東宝が倒産すると所属の俳優たちは各社に分散した。このうち大映入りしたのが宇津井健、万里昌代、三条魔子、少し遅れて天知茂である。
天知の場合、大映とはフリーの立場で本数契約を結んだと言われることが多いが、「大映グラフ」1962年10月10日号では若山富三郎が城健三朗に改名して大映入りした際に天知とも専属契約したと伝えている。既にテレビにも進出していたので「映画出演は大映のみ」と言う意味での専属だったのかもしれない。
それはともかく、天知を除く3人は入社後すぐ人材不足の大映で主演級で起用されている。宇津井は現代劇のサスペンス物やメロドラマの主演、万里は時代劇のヒロイン、そして一番若い三条は青春映画のヒロインである。

三条魔子は59年にフランソワーズ・アルヌール主演のフランス映画「女猫」にちなんで募集された「ミス女猫」に当選したのをきっかけに、高校を中退して新東宝に入社した。デビューして最初の3作は、画面に登場しているのに名前を伏せる「シークレット・フェイス」と言うよくわからない企画で売り出されている。60年に「美男買います」で三条魔子として本格的にデビューするが、1年半余りで新東宝が倒産。61年10月に大映に移籍する。
「魔子」と言う芸名が示すように新東宝時代は小悪魔的魅力を売りにしていたが、大映では清純派に転向している。移籍第1作は61年12月「若い奴らの階段」で、本郷功次郎の恋人役で出演した。4作目の「江梨子」(62年)は橋幸夫の同名ヒット曲を題材にした悲恋物で橋が主演、三条はタイトルのヒロイン江梨子その人を演じた。出演時点ではまだ「三条魔子」だったが、映画にちなんで三条江梨子に改名した。橋とは「悲恋の若武者」「あした逢う人」(同)でも共演している。
歌手としてもデビューし、63年に浜田光夫とデュエットした「草笛を吹こうよ」がヒット。これは大映の橋幸夫&三条江梨子、日活の浜田光夫&吉永小百合の青春コンビ同士がそれぞれのパートナーを交換した形だ。橋と吉永のデュエット曲は勿論「いつでも夢を」である。
このヒットを受けて大映を退社し64年から本格的に歌手転向している。ここまでの約2年半で出演作は17本だったが、後半は作品に恵まれていたとは言い難い。歌手転向と言う形ではあれあっさり退社が認められたのとも無関係ではなさそうな気がする。
しかし歌手としてもあまりうまくいかなかったようで、「浪花っ子」「終着駅の女」などの曲名を見ると途中からは演歌っぽい曲やムード歌謡なども歌っていたようだ。
67年、芸名を三条魔子に戻すとともに映画にも復帰し、「女賭博師」シリーズや「眠狂四郎人肌蜘蛛」(1968年)などに出演。当時の大映の御多聞に漏れず、清純派から再転向してお色気要員になっている。
女優としての出演は68年8月の「関東女やくざ」が最後で、ウィキペディアには71年の大映倒産と同時に引退と書いてあるが、実際は各地のキャバレーで三条江梨子ショー等を行いながら70年代半ばまで歌手活動を続けていたようだ。その頃にハワイで日系三世と知り合って結婚、その後ラスベガスに移住したとのことである。1943年生まれだから今年74歳になる。

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大映俳優列伝(30)三角八郎

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TBSのドラマ「そろりと参ろう」で仲村隆と主演コンビを組んだのが三角八郎である。
法政大学を中退し1954年(昭和29年)大映東京撮影所に入所。同年の「真白き富士の嶺」に本名の伊藤直保で出演してデビューする。以後この名前で4年間出演しているが御用聞き、店員、ボーイなど殆ど端役である。しかし58年に転機が訪れる。
もともと日本の映画会社は毎週1本ずつ新作を製作・配給するプログラムを組んでいたが、後発の東映が54年から二本立て興行を実施し成功を収めると最初は静観していた他社も追随し、一番消極的だった大映も56年頃から二本立てに踏み切らざるを得なくなったのである。そして58年からは主軸となる映画に添える中編として喜劇路線を打ち出すことになる。この時に抜擢されたのが新人の石上正二と伊藤直保だった。二人は丸井太郎、三角八郎と芸名を変えた。
同年11月の「恋と花火と消火弾」と「盗まれた縁談」はいずれも三枚目の「丸・三角」が美男美女と絡むストーリーの恋愛コメディである。2人は前者で主役、後者に準主役で出演している。なのでもしこのまま定着していれば喜劇不毛の大映にも名物コンビが誕生したかもしれないのだが、長続きはしなかった。
翌59年、あくまで二本立て興行を良しとしない社長・永田雅一の方針で、大映は一本立ての大作主義を断行することになったからである。当然喜劇などは必要なくなり、お呼びでなくなった「丸・三角」コンビは切り離されてまた端役暮らしへ逆戻りである。
63年、大映テレビ室が制作したTBSの連続ドラマ「図々しい奴」の主役に丸井太郎が抜擢され人気を博すと、続く大辻伺郎主演の「赤いダイヤ」も好評を博し、喜劇シリーズの第3弾として「そろりと参ろう」が製作され主役に仲村隆と三角八郎が起用される。このドラマが当たっていれば三角も丸井のようになっていたかもしれないが、幸か不幸か前2作ほどの人気は呼ばなかったようで、出演後も三角のポジションが変わることはなかった。
67年「にせ刑事」出演を最後にフリーとなる。なおその数か月後に丸井太郎は自殺している。
バイプレイヤーとして本領を発揮したのはむしろテレビに移ってからだろう。「Gメン'75」(TBS)などの刑事ドラマや「水戸黄門」「大岡越前」(TBS) などの時代劇にゲスト出演し、人情味ある刑事や頑固な職人のような善人役から犯人・悪役まで幅広く演じた。
昨年8月に80歳で亡くなった。

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大映俳優列伝(29)仲村隆

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丸井太郎主演の「図々しい奴」、大辻伺郎主演の「赤いダイヤ」に続くTBS=大映テレビ室制作の喜劇ドラマ第3弾として放送されたのは「そろりと参ろう」(1963年12月~64年3月)だった。その主演が今回の仲村隆である。
『日本映画人名事典』にも載っていないのでプロフィールが不明だが、元大映宣伝部の中島氏のブログによれば山口県出身でお寺の息子だったと言う。映画データベースに載っている最古の出演作は60年(昭和35年)3月公開の「街の噂も三十五日」(田宮二郎主演)なので、遅くとも59年には大映東京撮影所に入社していたと思われる。ちなみに同時期にデビューしたのは第13期ニューフェイスの江波杏子、吉野妙子らである。
以後90本近くの映画に出演しているが、あまり表情のない地味な風貌であるためか当初は新聞記者などの端役が多かった。やがて「黒シリーズ」に代表されるサラリーマンサスペンス物が台頭してくると少しずつ重用されるようになり、「黒の駐車場」(63年)では物語の鍵を握る新薬の研究者を演じている。そして「そろりと参ろう」で主演に抜擢されたのである。
内容は、尺八家元の御曹司とそのお目付け役の弟子が虚無僧姿で東海道を日本橋から京都まで尺八の行脚修行の旅をする、と言うもので、タイトルはスピード社会に背を向けて“そろりそろりと”歩きでの修行旅、と言うところから来ているようである。原作は尺八の大家で「笛吹童子」のテーマ曲の作曲者でもある福田蘭堂(石橋エイタローの実父)で、仲村が尺八家元の御曹司、お目付け役の弟子を三角八郎が演じ、ほかに姿美千子、見明凡太朗、青島幸男らが出演している。
概要を読む限り「図々しい奴」や「赤いダイヤ」が底辺からしぶとくのし上がっていく人間の生き様を描いたのと違って、「そろりと参ろう」は現代版東海道膝栗毛を意図した飄々としたストーリーだったようである。ドラマの評判がどうだったのかわからないが、前2作に主演した丸井太郎や大辻伺郎が人気者になり、丸井太郎ですらテレビ出演後の映画では準主演格に上がっていたのに比べて仲村の場合は別に上がりもせず下がりもせずなので、それほど人気は得られなかったのかもしれない。
65年「兵隊やくざ」で主役の勝新太郎&田村高廣コンビの上官を演じたのに続いて66年の「陸軍中野学校」では市川雷蔵扮する椎名次郎の僚友・杉本を演じ、シリーズ3作目で殉職するまでレギュラー出演している。
ガメラシリーズにも出演し「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(67年)ではギャオスの超音波メスで車を両断されながらも特ダネに拘る新聞記者、「ガメラ対大魔獣ジャイガー」(70年)では口やかましい万博事務局長を演じて印象を残している。最後の出演作は大映最後の配給作品「悪名尼」(71年)だった。
倒産後は郷里の山口に戻り、前出の中島氏によれば実家のお寺で住職になったと言うことである。

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大映俳優列伝(28)大辻伺郎

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大映は1958年(昭和33年)にテレビ製作室、所謂「大映テレビ室」を設置した。最初は「少年ジェット」(フジテレビ)などの子供向け30分番組が主だったが、62年からTBSの月曜午後10時からの1時間枠を製作するようになる。その3作目が丸井太郎主演の「図々しい奴」であり、次の「赤いダイヤ」(1963年9~12月)に主演したのが大辻伺郎である。
一字違いの芸名の父・大辻司郎は大正末期に無声映画の活動弁士から転じて「漫談」と言う一人話芸のジャンルを創設した元祖だった。戦後も人気漫談家として活躍していたが、52年4月、日航機・もく星号が三原山に墜落した事故の犠牲となって亡くなってしまう。当時、高校生だった息子の伺郎はそれを契機に高校を休学、一時期は板前の修行をしたこともあったが、やがて俳優を志して早稲田大学演劇科へ入学する。
55年に中退し新派の伊志井寛に師事しながらテレビ局のエキストラをやっていた時に端役で出演したドラマで市川崑監督に認められ、1960年、大映のオムニバス映画「女経」第2話に出演。大映入りして増村保造監督の「偽学生」(60年)「好色一代男」(61年)などにも起用され、ギョロ目ととぼけた持ち味で頭角を現した。そして「赤いダイヤ」で主役を射止めたのである。共演はNHKのアナウンサーから女優に転身したばかりの野際陽子で、二人はともに茶の間の人気者になった。
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ちなみに「赤いダイヤ」も「図々しい奴」同様に東映によって翌64年に藤田まこと主演で映画化されている。まるで東映のために大映が題材を提供していたようなもんである。
それはともかくとして大辻はその後フリーとなりテレビ、映画の売れっ子になる。映画「われ一粒の麦なれど」(64年、東宝)ではポリオ患者を熱演し、テレビドラマ「喜びも悲しみも幾歳月」(65年、TBS)では映画で佐田啓二が演じた主人公の灯台守を演じるなどシリアスな演技者としても才能を発揮している。一方で「ゲバゲバ90分」(69~71年、日本テレビ)や「ハレンチ学園」(70~71年、東京12チャンネル) などのバラエティやコメディでも活躍した。
だが、私生活で離婚と結婚を繰り返したり莫大な借金を抱えたり、更にスタッフとのトラブルからをレギュラー番組を降板するなど、何かと問題も多かったようである。72年には胃潰瘍で倒れ入院もしている。
73年5月21日、ホテルオークラの客室で首吊り自殺した。38歳だった。自殺の前日に自動車事故を起こしていたと言うが、自殺との因果関係は明らかではない。奇しくも「図々しい奴」の丸井太郎、「赤いダイヤ」の大辻伺郎と、TBSドラマの主演俳優が2代続けて自殺することになってしまったのである。

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大映俳優列伝(27)小柳圭子

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個人的に大映の脇役に興味を持つきっかけとなった俳優の一人である。頻繁に出演クレジットを見かけるのにどこに出ているのかわからず、顔と名前が一致しなかったからだ。彼女も小林加奈枝同様に大部屋女優であったが年齢は遥かに若く、戦後デビューの女優である。
大阪府庁に勤務していたが新劇女優を志して劇団に入り、1949年(昭和24年)に大映京都撮影所へ入社した。ちなみに『日本映画人名事典』では48年の第1期ニューフェイスとなっているのだが、48年は第4期ニューフェイス(目黒幸子、中条静夫ら)なので辻褄が合わない。
また、『日本映画人名事典』はデビュー作を1949年10月公開の「痴人の愛」としているが、映連データベースには2月公開の「最後に笑う男」(大映東京)で既に名前が載っている。尤も大部屋女優はこの手のデータベースに出演記録が残らないことも多いので、どれがデビュー作なのかは本人以外わからないかもしれない。
大映倒産まで在籍して溝口健二作品や「眠狂四郎」シリーズ、「座頭市」シリーズ、「大魔神」シリーズなど数多くの時代劇に端役で出演している。大抵は台詞のある役なのだが、地味で特徴のない顔立ちなのでなかなか見付けにくかったりする。「妖怪百物語」(68年)では妖怪の一人、大首を演じ、スクリーンいっぱいに顔がアップで映るシーンもあるが、特殊メイクをしているので素顔ではない。
大映倒産後も女優を続けテレビ時代劇を中心に活動している。息子は俳優・劇団演出家の武見龍磨で、1988年の「暴れん坊将軍III」第32話には親子で出演している。

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