雅羅倶多館

1960~80年代のテレビドラマや映画を中心にあらすじや感想を書いています。

大映俳優列伝(73)南條新太郎、玉置一恵


戦前までは主演スターとして活躍したが、戦後の大映時代劇では脇役に廻った俳優が何人かいる。今までに取り上げた橘公子や水原浩一もそうだったが、南條新太郎もその1人である。
1917年(大正6年)生まれ。36年(昭和11年)、新興キネマのスター募集に応じて京都撮影所に入社し、37年に「吉田御殿」の近習役でデビューした。同年の「岡野金右衛門」で早くも主演に抜擢され、以後主演スターとして活躍したのである。
42年の統合で大映京都撮影所に所属となり、大映の第1回作品「維新の曲」では沖田総司を演じた。
その後は退社して応召と実演の生活が続いていたが、戦後の47年に「宵祭八百八町」で大映に復帰している。52年に正式契約して、「天保水滸伝 利根の火祭」以後は脇役として活躍した。「忠臣蔵」(58年)の伊達左京亮、「眠狂四郎勝負」(64年)の老中水野忠成役などで120本以上の時代劇に出演し、末期は「皆殺しのスキャット」(70年)などの 現代劇にも出演している。
大映倒産後はTV「水戸黄門 第3部」第18話(72年、TBS)と「同・第4部」第7話(73年)にゲスト出演した程度で目立った活動は少ない。73年の映画「戒厳令」(現代映画社=ATG映画、吉田喜重監督)には南部彰三、堀北幸男、小林加奈枝、原聖四郎、石原須磨男ら元・大映京都の俳優らとともに特別出演したが、それ以降は出演作品が見当たらないようである。

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戦前まで華々しい経歴を誇った南條新太郎とは対照的に全く無名だったのが玉置一恵である。
なお下の名前は「かずえ」ではなく「いっけい」と読む(本名は貞一である)。
1908年(明治41年)生まれ。『日本映画俳優全集』によれば、21歳の頃、ある宗教劇団に加入して俳優になったと言う。だが、具体的にどんな劇団なのか不明である。また、同書によれば35年(昭和10年)に新興キネマに入社して玉置東之助を芸名とし、42年の統合で大映京都撮影所に所属したことになっているのだが、データベース上にはその間の出演記録が見当たらない。戦後になって48年の「王将」で漸く玉置一恵の名前で現れるのだが、それまでノンクレジットの端役ばかりだったとは考え難く、経歴にはどうも不明な点が多いようである。
ともあれそれ以降は200本近い作品に出演している。「眠狂四郎勝負」(64年)の道場主、「昨日消えた男」(64年)の幕府首脳、「座頭市逆手斬り」(65年)のやくざの親分など、堂々たる体躯を生かして時代劇の貴重な脇役として活躍した。
大映倒産を待たずして70年10月に粟粒結核のため死去した。最後の出演作は同年6月公開の「怪談累ヶ渕」である。


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大映俳優列伝(72)浅尾奥山、嵐三右衛門

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映画データベース上には浅尾奥山と言う映画俳優が2人いる。1人は大正末期、帝国キネマ(大映の前身のひとつ)に所属して「実録忠臣蔵」(1921年)などに出演した浅尾奥山である。もうひとりが戦後の大映で活動した、この浅尾奥山(四代目)なのである。三代目浅尾奥山が亡くなったのが1885年(明治18年)、大映の浅尾奥山が四代目を襲名したのは30年(昭和5年)なので、大正末期の浅尾奥山とは別人なのだろう。ただ何故後者が浅尾奥山を名乗っていたのか、とか、両者の関係はどうなっているのか、と言った事情はわからない。
いずれにしろ戦前までは上方歌舞伎の脇役俳優だった四代目浅尾奥山だが、戦後は上方歌舞伎の衰退に伴い、長谷川一夫の誘いで映画界入りしたのである。『日本映画俳優全集』ではその時期を56年の「逢いぞめ笠」からとしているが、53年2月公開の長谷川主演作「浅間の鴉」にも既に出演歴がある。1894年(明治27年)生まれなので60歳だった。
以後約10年間大映京都撮影所在籍して長谷川の「銭形平次シリーズ」や「忠臣蔵」(58年)等に出演したほか、市川雷蔵主演の「好色一代男」(61年)の番頭、「悪名」(61年)で朝吉(勝新太郎)が居候する筆屋の主人、「女系家族」(63年)で一族の長老などの老け役を数多く演じた。またこの間には、長谷川が映画と並行して続けてきた東宝歌舞伎にも60年からレギュラー出演していたようである。
63年に長谷川が映画界を引退すると、同じ年に退社して歌舞伎へ復帰した。フィルモグラフィ上の最後の出演作は64年1月公開の「眠狂四郎勝負」である。
74年に90歳で亡くなっている。

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浅尾奥山と同様に上方の歌舞伎役者から大映の脇役俳優に転じたのが嵐三右衛門(十代目) である。
1906年(明治39年)生まれ。中村梅玉に入門し12年に中村福万寿の名で初舞台を踏む。29年(昭和4年)に七代目中村駒之助を襲名。48年に大名跡の嵐三右衛門を襲名したが、関西歌舞伎の不振で大衆演劇に転じた。
53年の宝塚映画「鞍馬天狗 斬り込む」から映画にも出演するようになり、大映には56年の「残菊物語」で初出演した。59年から大映京都撮影所専属となり、時代劇を中心に約60本の作品に脇役として出演している。浅尾奥山よりも一回り若く、また大柄で立派な押し出しの体躯だったことから、「江戸無情」(63年)の老中土井大炊頭、「眠狂四郎勝負」(64年)の大店の主人など、善悪を問わず重鎮の役柄を演じることが多かったようである。
65年の「若親分出獄」を最後に歌舞伎へ戻り、80年に亡くなった。

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大映俳優列伝(71)南部彰三、石原須磨男

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大映京都で老け役を長く演じたのが南部彰三と石原須磨男である。
南部彰三は1898年(明治31年)大分県生まれ。旧制中学を卒業後に地元で代用教員を務めていたが、22年(大正11年)に上京して陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。しかし関東大震災後に澤田正二郎の新国劇が催した罹災市民慰安の野外劇を見て感激したのをきっかけに俳優を志し、24年に日本映画俳優学校の2期生として入学した。見明凡太郎の回でも触れたようにこの学校は坪内逍遥門下の水口薇陽が設立した日本初の映画俳優専門の養成所である。同期にはその見明と小杉勇、1期生には島耕二がいた。
25年11月に中退して翌26年1月に日活大将軍撮影所に入社し「日輪」でデビューした。当時は南部章三という芸名だった。27年(昭和2年)に「旅芸人」で初主演してから主演俳優として活躍するが、35年にある助監督の監督昇進を擁護して会社に抗議したことからクビにされ、大都映画へ入社。更に河部五郎一座を経て新興キネマへ移籍し、42年の統合により大映京都撮影所に所属した。以後倒産まで在籍して200本以上に脇役として出演している。
51年の「お遊さま」から南部彰三に改名し、主に時代劇で「好色一代男」(61年)の老僧、「座頭市血笑旅」(64年)の庄屋、「大魔神逆襲」(66年)の名主などを演じた。現代劇にも出演して特撮作品の「宇宙人東京に現る」(56年)や「透明人間と蝿男」(57年)では博士役を演じたこともある。
大映倒産後はフリーとなり、TV「木枯らし紋次郎」(72年、フジテレビ)や「八つ墓村」(78年、MBS)、熊井啓監督の映画「お吟さま」(78年、宝塚映画)などに出演した。78年11月17日放送の「必殺からくり人 富嶽百景殺し旅」(ABC)第13話を最後に出演記録はない。

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石原須磨男は1903年(明治36年)神戸市生まれ。本名は孝と言う。芸名の須磨男は出身地の須磨から採ったのだろう。
中学を中退して21年(大正10年)に新声劇に入る。ちなみに新声劇とは新国劇から分かれた大阪の大衆剣戟団で、志村喬や左卜全が所属していたこともあったようである。後に栗島狭衣(女優・栗島すみ子の父)に師事して栗島プロに参加した。『日本映画俳優全集』によれば同プロの映画「恩讐の彼方に」では主役の了海を演じたということなので、これが映画初出演になるのだろうが、詳細な記録がないのでよくわからない。30年(昭和5年)、松竹加茂撮影所に入社し「幽霊花聟」(37年)などに出演。44年に退社し、高田浩吉劇団を経て戦後の47年に大映京都撮影所へ入社した。
倒産まで在籍して「お遊さま」(51年)「近松物語」(54年)「山椒大夫」(同)などの溝口健二監督作品や時代劇で老爺役を演じた。端役が多く、役柄の殆どが飯屋の親父や茶店の亭主などの町人役である。
倒産後は映像京都に所属してTV「木枯らし紋次郎」(72年、フジテレビ)や「犬神家の一族」(77年、MBS)、松竹映画「八つ墓村」(同)などに出演した。最後の出演作は82年10月22日放送の「丹下左膳-剣風!百万両の壷」(フジテレビ)だったようだ。


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大映俳優列伝(70)水原浩一

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荒木忍の死去から4か月後には水原浩一が亡くなっている。
1909年(明治42年)生まれ。24年(大正13年)、15歳で澤田正二郎らの新国劇に参加して土肥了平の名で舞台に立ったのが俳優活動の最初である。26年、タカマツ・アズマプロダクションに入社して土肥一成の名で映画界デビューしたが、同社は翌27年(昭和2年)に活動を停止したため松竹蒲田撮影所に移籍した。ここから撮影所遍歴が始まり、更にマキノ・プロダクションを経て東亜キネマに移籍するも、31年に同社の業績不振で所長の高村正次が退陣して大衆文芸映画社を設立すると水原も移籍した。以後は32年宝塚キネマ興行、34年エトナ映画社、35年極東映画、36年マキノトーキー製作所、37年日活京都撮影所、と目まぐるしく撮影所を渡り歩き、この間に芸名も土肥了治→水原洋一→水原宏二→水原庸一→水原蛟一郎と改名を繰り返している。
38年には大都映画に移籍し、芸名を水原洋一に戻して現代劇のスター俳優となった。以前、伊達正の回で取り上げたことのある39年のSF映画「怪電波の戦慄」二部作では、人間タンク(ロボット)を発明した博士(藤田まことの父・藤間林太郎) の助手役に扮して主演している。
42年の戦時統合によって大映東京撮影所に所属した。53年から京都撮影所に移り、55年には水原浩一に改名し、漸く撮影所遍歴と改名遍歴も終わりを告げている。
大映時代は主に時代劇の脇役として200本以上に出演しているのだが、率直に言って個人的には改名以前の水原に対する印象があまりない。62年の「忍びの者」で市川雷蔵の父親役を演じ初めて老け役に扮してからは、「座頭市関所破り」(64年)でやくざの代貸、「座頭市の歌が聞こえる」(66年)では頑固な旅籠の主人を演じるなど、善悪両方の役を演じ分けて老練な味を発揮していると思う。66年の「女の賭場」で江波杏子の父親役を演じて以来、女賭博師シリーズには計10本出演しているが、任侠の世界に詳しかった水原が指導にあたったと言うことである。
69年5月に60歳で死去した。雷蔵の死に立つ2か月前のことであり、奇しくも同じ肝臓癌だった。最後の出演作は同年4月公開の「殺し屋をバラせ」である。水原の場合はもう早死にとも言えないが、直前までコンスタントに出演を続けていたことを考えると唐突な印象だったのかもしれない。

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大映俳優列伝(69)荒木忍


1969年(昭和44年)は大映にとって忌まわしい年だった。7月17日に大黒柱の市川雷蔵が37歳の若さでこの世を去ったからである。雷蔵の死が大映崩壊の序曲になったことは言うまでもないが、この年に亡くなったのは雷蔵だけではない。脇役として大映時代劇を支え、雷蔵との共演も多かった2人の俳優も亡くなっている。
そのひとりが荒木忍である。
1891年(明治24年)生まれ。高校を中退して16歳で上京し東京ガスの配管工などをしていたが、騙されてタコ部屋へ送られた。タコ部屋と言っても今ではピンとこないが、戦前に炭鉱や土木工事のために労働者を拘束監禁して行われた過酷な強制労働のことであり、別名監獄部屋とも言う。
全くの余談だが、自分がタコ部屋を知ったのは昔「新青年傑作選」か何かで読んだその名も「監獄部屋」と言う探偵小説によってだった。なんでそれが探偵小説になるんだかわからないが、結末にその当時流行りの探偵小説的大どんでん返しがあったのである。
それはともかくとして、荒木もタコ部屋に送られたことが結果として俳優になるきっかけになったのだから人生わからない。なんとか脱出して、その途中で汽車賃欲しさに旅回りの劇団に加わったことが芸能界入りの第一歩だったからである。
浅草の常盤座などを経て、21年(大正10年)、日活向島撮影所に入社して映画俳優に転向した。22年、「破れ三味線」「不如帰」など数本に出演した後、同年暮れ国際活映に引き抜かれて衣笠貞之助らとともに移籍。その後はマキノ映画製作所、東亜キネマ、マキノ・プロダクションを経て、31年(昭和6年)、新興キネマ京都撮影所に移籍した。42年の統合で大映京都撮影所の所属となっている。
出演作は生涯に500本以上、大映時代だけでも300本近い数にのぼっている。比較的若い頃から老け役が多かったようだが、大映設立時で既に50歳を超えていたから、役柄も当然ほとんどが老人役である。中でも「忠臣蔵」(58年)の堀部弥兵衛や「眠狂四郎殺法帖」(63年)の空然など、頑固一徹な長老役や老僧役のイメージが圧倒的に強い。最も印象深いのは「悪名」シリーズで勝新太郎演じる朝吉の父親・善兵衛の役で、暴れん坊で怖いもの知らず朝吉が唯一頭が上がらない雷親父を説得力十分に演じている。
一方で悪役は少なく、ぱっと思いつくのは「濡れ髪喧嘩旅」(60年)の悪代官ぐらいなのだが、勿論自分が知らないだけでほかにもたくさんあるかもしれない。
70歳を越えても年間10本近い作品に出演し続けていたが、64年頃からは年2~4本程度に減っている。67年は1本も出演がなく、68年6月公開の「牡丹燈籠」が最後の出演作になった。
69年(昭和44年)1月、胃癌より77歳で亡くなった。
ちなみに妻は元女優の瀬川美津枝、娘は女優の荒木雅子、大映京都の脇役女優だった小松みどりは妻の妹である。

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