大映俳優列伝(65)若松和子、紺野ユカ

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村田姉妹の次は、彼女たちより20歳以上若い若松和子と紺野ユカの姉妹である。尤も2人の姓が違うし顔立ちもそれほど似ているわけではないので、言われてみないと姉妹だと気が付かれないかもしれない。どちらかと言えば姉は和風で、妹はちょっとエキゾチックな顔立ちだと思う。実家は四谷の料亭で本名は「星」と言う。一男四女の長女が若松和子で末っ娘が紺野ユカだった。
若松和子は1936年(昭和11年)生まれ。50年、松竹音楽舞踏学校へ入り、54年に松竹歌劇団(SKD)入団。当時は本名の星和子を芸名に出演していた。55年にSKDを退団して大映と契約し、本籍地の会津若松にちなんで若松和子に改名した。翌年の「あなたも私もお年頃」でデビュー。当時のトップアイドル雪村いづみの相手役を勝新太郎が務める青春歌謡映画で、若い頃の勝新はこうした映画にも出ていたのだ。若松和子の役は勝新、田端義夫とともに旅をする売れないドサ廻りの楽団の一員である
「天使もお年ごろ」「くちづけ」などでヒロインの友人役や時代劇に助演した後、58年に仁木悦子原作の「かあちゃんは犯人じゃない」で初主演している。と言っても実質な主役は子役なのだが、22才にして早くも母親役を演じている。
以後「悪名太鼓」(64年)「眠狂四郎魔性剣」(65年)などに助演し、67年フリー。大映最後の出演作は69年の「ある女子高校医の記録 失神」だった。
68年に料理ジャーナリスト岸朝子の兄で競馬評論家の宮城昌康と結婚して一男一女をもうけた。娘は後に日本中央競馬会の元騎手で調教師の中舘英二に嫁いでいる。
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紺野ユカは42年生まれ。58年、姉と同様に松竹音楽舞踏学校へ入るが、大映に誘われ1ヶ月で中退して入社している。東京撮影所所長だった永田秀雅に芸名を紺野ユカと命名されて、同年「俺たちは狂っていない」でデビュー。 この映画で野口啓二、小林勝彦、当銀長太郎たちもデビューしている。
50本余り出演し、脇役でセクシーな役柄が多いが、61年「黒い十人の女」(市川崑監督)ではタイトルの十人の女のひとりである信子役を演じ、65年「清作の妻」(増村保造監督)では恋人の清作を若尾文子演じるお兼に取られてしまうお品役を好演している。なお姉との共演作は「その夜は忘れない」(62年)「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(66年) など何本かあるが、直接の共演シーンがあったかどうかまで調べていないのでわからない。
67年「痴人の愛」のナオミの姉マリエ役を最後に引退してしまう。これは次の作品でヌードになるように要求されたのが原因で、後の南美川洋子と同じケースである。紺野ユカの場合はそれまでにセミヌード的な役になったことはあるのだが、本当に脱ぐのは嫌だったのだろう。
その後は家業を引き継いで料亭を経営していたが、現在は福岡に在住し、その傍ら元大映俳優の川原禎文(芸名は宗近一)が経営している俳優事務所に所属して芸能活動も再開したようである。

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大映俳優列伝(64)村田扶実子、村田知栄子

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村田扶実子と村田知栄子の姉妹はともに戦後の大映で脇役として活躍したが、それまでの道のりは違っていたようだ。
扶実子は1907年(明治40年)生まれ。知栄子は8歳下の15年(大正4年)生まれ。父はロシア文学者、叔父は新派の名優だった村田正雄で、長兄も二代目村田正雄として新派の俳優になっている(なお三代目村田正雄もいたが、血縁はない)。
そうした家庭環境の影響を受けて育った扶実子も27年(昭和2年)に宝塚国民座へ入り女優の道を歩んだ。松竹家庭劇を経て水谷八重子の芸術座へ移り、戦後も長谷川一夫の新演伎座などで一貫して舞台女優として活動していた。なので、映画界入りしたのは50歳手前と、かなり遅かったのである。56年に大映と契約し、以後倒産まで在籍して主に老け役で「巨人と玩具」(58年)、「妻は告白する」(61年)、「大怪獣ガメラ」(65年)、「白い巨塔」(66年)などの作品に出演した。最後の出演作は「遊び」(71年)である。72年に体を悪くして以降は活動記録がない。
一方、知栄子は女学校卒業後の33年、後の大映社長で当時日活太秦総務だった永田雅一にスカウトされて日活入社と、ストレートに映画界入りしている。同年「大東京曇後晴れ」でデビューし、「夢に見る母」「嫁ぐ日」などの作品に主演し、日活太秦のスター女優として活躍した。36年、日活多摩川撮影所に移り、42年の戦時統合により大映東京撮影所の所属となった。46年、松竹に移籍するが53年、大映に復帰。65年まで在籍して「故障息子」(53年)、「楊貴妃」(55年)、「女の勲章」(61年)などに出演した。ちなみに芸名は村田智栄子→村田千栄子→村田千英子→村田知栄子→村田知英子と、読み方は同じだが目まぐるしく変わっていた。大映時代はほぼ知栄子で統一されている。
姉とは何度か共演しているが、同一シーンでの出演があったかどうかわからない。 「女は二度生まれる」(61年)では知栄子が若尾文子の芸者が所属する置屋の女将、扶実子は若尾がお座敷に出る料亭の女中頭の役を演じている。
フリーになってからはテレビドラマにも進出し、「特別機動捜査隊」(NET)や「水戸黄門」(TBS)などに度々出演した。現在まで日本中どこかで再放送が途切れることがないと言われる人気昼帯ドラマ「あかんたれ」(76~78年、東海テレビ)には芸者置屋の女将役で出演していて、自分が村田知栄子を知ったのもこのドラマの再放送によってである。1995年に死去。
書き落としたが、見明凡太朗とは戦前夫婦だったのだが、大映時代は既に離婚していたようだ。ウィキペディアによれば、2013年1月にNHK BSプレミアムの番組「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」公式ホームページの「視聴者の声」内に見明の娘と称する人物から書き込みがあったと言うことだが、知栄子との子供なのかどうかは不明である。

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大映俳優列伝(63)渥美進、当銀長次郎

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大映に所属した俳優親子には渥美進・若宮れい子とその娘である渥美マリもいた。尤も時代は離れているので親子が同時に所属したことはないのだが。
渥美進は大映の第2期ニューフェイスとして1946年(昭和21年)に大映東京撮影所入社。同期には船越英二、関千恵子などがいた。47年にデビューし、同年12月公開の「いつの日か花咲かん」には船越、関らとともに当時のニューフェイス総出で出演している。
余談だが関千恵子はこの映画で共演した俳優の黒田潤とのちに結婚するのだが、夫の黒田は大映を退社後、本名の市川喜一でフリーの映画プロデューサーに転じて「ここに泉あり」(今井正監督)、「他人の顔」(勅使河原宏監督)、「華麗なる一族」(山本薩夫監督)、「犬神家の一族」(市川崑監督)など映画史に残る数々の名作を製作した。 その息子も東宝に入社してプロデューサーとなった。それが現在の東宝映画社長の市川南である。つまり大映の俳優の子が東宝の社長になったのである。
それはともかくとして、渥美進のほうは以後、「母紅梅」(49年)、「長崎の歌は忘れじ」(52年)、「金色夜叉」(54年)など、54年までに40本近い出演記録があるが、その大部分は端役だったようである。 自分も「虹男」(49年)と「氷柱の美女」(50年)に台詞なしで1シーン出演しているのを見たことがあるだけだ。
この間に同僚の大映女優だった若宮れい子と結婚して50年にマリが生まれている。なお若宮れい子の出演作品としては「三面鏡の恐怖」(48年)がデータベース上で確認できるのみである。
娘のマリは高校在学中の67年に大映第19期ニューフェイスとして大映東京撮影所に入社し、翌年の「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」でデビューした。69年の「いそぎんちゃく」で初主演。以後軟体動物シリーズなどでセクシー女優として末期の大映を支えたことは有名なので割愛する。76年に芸能界から姿を消して後は消息がつかめなかったので一時は死亡説も出ていたが、今でも元気でいるそうである。

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さて、親子の次は兄弟である。大映に所属した男の俳優兄弟と言えばまず城健三朗こと若山富三郎と勝新太郎であるが、あまりにも有名なのでここでは省く。と言っても、ほかにはいないのだが。。。有名な川口ファミリーの子供たちも、大映に入ったのは長男の浩のみで、次男の恒は日活へ、三男の厚と長女の晶は父親の川口松太郎が関係していた劇団新派を経てテレビ界入りしている。
しいて言えば、双子の兄弟である当銀長太郎と当銀長次郎が大映映画に出演している。ただし兄の長太郎は高校在学中の1958年(昭和33年)、俳優公募に応じて「俺たちは狂っていない」に出演したが、それ1本のみで高校生活に戻っており、弟の長次郎はその後で 大映に入社している。尤も弟に触発されたのか、長太郎も高校卒業後にサラリーマン生活を経て東宝に入っている。
長次郎は「妻は告白する」(61年)、「誘拐」(62年)、「ぐれん隊純情派」(63年)、「剣」(64年)などに脇役で出演したが、65年頃には姿を消している。自分の知る限りでは不良青年っぽい役が多かった印象である。 一方の長太郎も最初は端役だったが、65年の「ゴジラ・モスラ・エビラ南海の大決闘」に準主役級で起用され、67年にはテレビ「太陽のあいつ」にレギュラー出演している。 その後も長く活動し現在は俳優スクールを運営しているようである。

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大映俳優列伝(62)潮万太郎、弓恵子

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大映には長谷川一夫と林成年・小野道子(長谷川季子)、中村鴈治郎と中村玉緒、三益愛子と川口浩、そして潮万太郎と弓恵子と言う俳優親子がいた。このうち劇中でも親子を演じたのは三益・川口親子と潮・弓親子である。
潮万太郎は1909年(明治42年)生まれ。23年(大正12年)小笠原映画研究所(小笠原プロ)の「三色すみれ Love in Idleness」に花房綾夫という芸名で子役として映画初出演した。ちなみに片岡千恵蔵のデビュー作でもある。
東亜キネマ等持院撮影所を経て28年(昭和3年)、日活太秦撮影所に入社し潮万太郎と改名。34年、多摩川撮影所に移転。42年の統合により大映東京撮影所に所属した。
大映では160本以上出演した。軽妙な脇役として「瓢箪から出た駒」(46年)などのコメディ、「巨人と玩具」(58年)などのサラリーマン物、「忠臣蔵」(58年)などの時代劇、「破戒」(62年)などの文芸物まであらゆるジャンルで活躍している。
66年「白い巨塔」を最後に退社し、フリーとなった。以後、TV「好き! すき!! 魔女先生」(72年)の校長先生役レギュラーや「銭形平次」などにゲスト出演している。81年正月の12時間時代劇「それからの武蔵」(テレビ東京)出演を最後に引退したようである。
2000年に91歳で死去。
さて潮万太郎には二男一女の子供がいた。長女が弓恵子で、弟の柴田昌宏と柴田侊彦も後に俳優になったが大映には入っていない。ちなみに昌宏は若い頃には青春ドラマの生徒役で活躍していたがその後はあまり役に恵まれず30代で引退してしまったようである。侊彦は時代劇や刑事ドラマの脇役が多かったが、一番馴染があるのはNHKで長きにわたって放送されていたアメリカのTVシリーズ「大草原の小さな家」でマイケル・ランドンが演じた父親役の声の吹き替えだろう。
弓恵子は36年生まれ。55年に光丘ひろみの芸名で東宝映画「赤いカンナの花咲けば」でデビューした。その後東宝芸能学校を卒業して東宝数本に端役で出演したのち、59年、父親のいる大映に入社。伊藤大輔が名付け親となって弓恵子と改名し、同監督の「女と海賊」で再デビューした。
60年、「明日から大人だ」の不良少女役で初主演。なお潮万太郎も出演しているが、この時は親子役ではない。次の「街の噂も三十五日」で初めて親子役を演じ、「悲しき60才」(61年)で再び親子役を演じた。また親子役ではないが「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ」(62年)でも共演している。
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明るいキャラクターで「お嬢さん三度笠」「東海道ちゃっきり娘」「銀座のどら猫」(60年)や「うっちゃり姫君」(61年)などの明朗時代劇や青春映画に主演したが、62年以降は脇に回ることが増えている。64年、フリーとなって日活、東映などに出演。テレビでは66年に「これが青春だ」(日本テレビ)で弟の昌宏とともにレギュラーで出演している。69年「水戸黄門」第1部(TBS)で光圀暗殺を狙う女盗賊お蝶を演じて以来、時代劇の悪女役には定評があった。
私生活では悪役俳優宮口二郎と結婚したが90年に死別している。

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大映俳優列伝(61)長谷川裕見子、林成年、小野道子(長谷川季子)

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大映には看板スターで重役でもあった長谷川一夫の縁に繋がる俳優が多くいた。
最初に大映に入ったのは姪の長谷川裕見子である。後妻の姉の娘なので血の繋がりはない。裕見子の本名も「長谷川」だが、これは母親の嫁ぎ先が偶然長谷川姓だったためである。1947年(昭和22年)、当時長谷川が率いていた新演伎座に入り「遊侠の群れ」(48年)で映画デビューした。
50年、伯父とともに大映京都に入社し、伯父主演の「銭形平次」(51年)で平次の女房お静、「源氏物語」(同)では朧月夜の君を演じた。55年に東映へ移籍し、市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村錦之助らの相手役を務めた。58年、大映時代に共演した船越英二と結婚して生まれたのが、近頃お騒がせの英一郎である。
54年にはもう一人の義理の姪の中村玉緒が大映に入社した。こちらは先妻の兄・二代目中村鴈治郎の娘である。もともと女優になる気はなかったのだが、中学生の時に松竹映画「景子と雪枝」(53年)ほか数本に出演するうちに女優熱が高まり、長谷川に頼み込んで中学卒業と同時に大映と契約したである。
そして玉緒と同じ年に入社したのが長男の林成年、2年後に入ったのが長女の小野道子(長谷川季子)である。

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成年は31年生まれで本名は長谷川元男と言う。37年2月に当時の父の芸名・林長二郎に因んだ林成年の芸名で初舞台を踏み、7月に父主演の映画「元禄快挙余譚 土屋主税」で映画初出演。以降、父の主演した映画などに子役としてたびたび出演した。慶応大学時代は映画監督を志したが、54年に卒業すると永田雅一の勧めで大映に入社し俳優となる。市川雷蔵、勝新太郎とは同い年で同期である。
同年8月「真白き富士の嶺」で主演デビュー。逗子開成中学のボート遭難事件とそれにまつわる“真白き富士の嶺”の歌謡曲に材を取った青春映画で、共演は南田洋子、同じく新人の市川和子、それに石井伊吉時代の毒蝮三太夫も出演している。なお後年、日活映画にも吉永小百合主演の「真白き富士の嶺」があるが、全く別の話である。
以後70本前後の作品に出演。「君待船」(54年)「俺は藤吉郎」(55年)になど主演し、「花の兄妹」「弥次喜多道中」(56年)では雷蔵とのコンビで準主演をしているが、スターになるにはイマイチだったのか、やがて助演に回る。長谷川一夫との親子共演は「俺は藤吉郎」に父が信長役で特別出演したのを初め「銭形平次シリーズ」などで実現しているが、親子の役はなかったようである。
60年に上田吉二郎の養女と結婚した。よって上田吉二郎は義父にあたる。
同年、大映を退社して舞台俳優に転向し、62年東宝に入社。なお大映退社後も映画には63年まで出演し、最後の出演は父の300本記念映画「雪之丞変化」である。長谷川が同年限りで映画界を引退し、東宝歌舞伎を率いるようになると、成年もレギュラー出演した。
2008年に死去。

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季子は34年生まれ。50年、宝塚音楽舞踊学校に入り、翌51年、宝塚歌劇団に入団。同期に中田康子や声優の太田淑子がいた。同年、本名で初舞台を踏み、東宝映画「若人の歌」にも出演。その後も宝塚在籍のまま大映映画「七人の兄いもうと」などに出演。
56年、宝塚を退団し大映に入社。同年、小野道子の芸名で「祇園の姉妹」で初主演。戦前の溝口健二監督作品のリメイクであり、旧作では山田五十鈴が演じた大役でもあったから、長谷川一夫の令嬢に相応しい華々しいデビューと言えるだろう。尤も芸名に「長谷川」や「林」を名乗らなかったのは、七光りと言われたくなかったのかもしない。
「愛の海峡」(56年)では川崎敬三を相手役に主演し、その後もいくつか準主演を務めたが、やはりスターにはなれず、脇に回ることが多くなる。時代劇も多いが、むしろ「巨人と玩具」(58年)「からっ風野郎」(60年)など現代劇で少しひねた役を演じる時の方が個性を発揮できたように思う。
ちなみに父とは「鼠小僧忍び込み控 子の刻参上」(57年)「忠臣蔵」などで共演しているが、親子役はなかった。兄とは「月形半平太 花の巻・嵐の巻」(56年)で兄妹役を演じている。なお「月形半平太」には異母妹の彰子(長谷川稀世)も子役で出演している。
61年、芸名を本名の長谷川季子に戻し「続・悪名」などに出演するが、62年、「黒の試走車」を最後に大映を退社。その後は舞台「銭形平次」(と言っても長谷川一夫ではなく大川橋蔵主演)で平次の女房お静役を長く務めた。
倒産直前の71年10月には、季子の長男、つまり長谷川一夫の孫である丈洋が「片足のエース」(勝プロ製作・大映配給)に子役で出演している。これは中村玉緒の推薦だったと言う。自分の映画界入りに際して長谷川の世話になったことへの恩返しだったのかもしれない。結果的に長谷川家三代が大映の俳優になったわけである。

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