アイフル大作戦

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1973年4月14日~1974年5月4日にTBS系で放送(全56回)。

物語はアイフル探偵学校の校長・岸涼子(小川真由美)と生徒たち(谷隼人、松岡きっこ、川口厚、西田健)が毎回様々な事件に出会い、警視庁の桜田警部(丹波哲郎)、追手刑事(藤木悠)、一匹狼の私立探偵の南条京太郎(杉浦直樹)らと抜きつ抜かれつしながら捜査にあたり、解決するまでを、コミカルに、ハードボイルドに描いたアクションドラマで、TBS同枠のドラマとしては「キイハンター」と「Gメン’75」の中間に位置します(姉妹編の「バーディ大作戦」もありました)。
このドラマは土曜夜9時放送でしたから、いくら週末とは言え、こんな夜遅く(!)にこんなドラマ(お色気シーンもあった)を見ることを親が許可してくれていたとは思われませんので、私が見ていたのは平日夕方の再放送だったのでしょう。
ドラマの見所は、何と言っても主役の小川真由美お姉様。
「アイフルとは何か?
アイフルとは、すごい美人、または目を見張るほどイカす奴のこと!」
と言う、芥川隆行の語るOPナレーションの通り、男勝りで、お洒落で色っぽくて、そして時に可愛らしい美女を演じています。
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自称男嫌いで一見お金にがめついのですが、実際は非常に情熱的で行動的な女性と言う、この前後に演じていた「女ねずみ小僧」にも通じるキャラクター。真由美お姉様は本当にかっこよかったですねえ。子供心にもステキな大人の女性と言う感じがしました。
♪もしも私が 男になったら 私はきっと 私みたいな 女に惚れるわ…
と、EDではお姉様自身が主題歌も歌ってらっしゃいますが、上手いのか下手なのかよくわかんない、鼻にかかった独特の節回しにも味がありました(笑)
杉浦直樹はキザでクールな色男と言う、後年ホームドラマで演じていることの多かった、とぼけた父親役とはだいぶ違うイメージでした。真由美お姉様とは、いつも憎まれ口を叩き合いながらも内心ではお互い愛しく思っている関係なんかには憧れちゃいましたね^^;
丹波哲郎は「キイハンター」~「Gメン」までこの枠のドラマにオール出演。お姉様とのコミカルな掛け合いは見ものでした。
藤木悠は"ドデカ"と呼ばれるたたき上げ刑事役で、「Gメン」でも丹波とコンビを組んでいます。
谷隼人と松岡きっこは確か、このドラマが縁で知り合って結婚したのではなかったかしら。
川口厚は有名な川口兄弟(浩・恒・晶)の末っ子で、後に恒・晶同様、クスリで捕まって引退。
クールなエリート役が多い西田健の、コミカルな三枚目と言うのも珍しいです。
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真田太平記

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池波正太郎原作のテレビ歴史時代劇(1985年4月3日~1986年3月19日・全45回・NHK放送)

物語。信州上田城主・真田昌幸(丹波哲郎)は小大名ながら智略に優れた武将。長男・信幸(渡瀬恒彦)、次男・幸村(草刈正雄)とともに徳川家康(中村梅之助)の大軍を打ち破り名を挙げる。やがて真田家は天下を統一した豊臣秀吉(長門裕之)の傘下に入り、信幸は家康の将・本多忠勝(加藤武)の娘小松殿(紺野美佐子)と、一方、幸村は秀吉子飼いの大谷吉嗣(村井国夫)の娘於利世(中村久美)と婚姻を結ぶ。しかし秀吉の死後、家康と石田三成(清水紘治)が対立、真田家もまたに昌幸・幸村と信幸に相別れることに…

NHKが大河ドラマの時代劇を休止して近現代劇三部作(1984~86年、「山河燃ゆ」「春の波濤」「いのち」)を放送していた期間、その代替として時代劇好きの視聴者向けには、「水曜時代劇」の枠で、従来の大河ドラマの予算を縮小した規模で歴史時代劇が放送されていました。その第一作が「宮本武蔵」(役所広司主演)、第二作がこの「真田太平記」、そして第三作が「武蔵坊弁慶」(中村吉右衛門主演)。
私は時代劇ファンですから、近現代劇よりこちらの方が本当の大河ドラマらしくて好きでしたが、中でも「真田太平記」に最も惹かれました。
このドラマではセットや戦闘シーンの制作費の不足を補うため、CGを初めて本格的に導入して多用しています。何せ初期のCGですから今から比べると、いや当時から見てもかなりチャチな感じはありました。しかしそれが苦にならないのは、重厚な構成と豪華な出演陣のお陰です。
まず真田家の象徴・六文銭が飛んでくるOPとともに流れる、弦楽器による主旋律の哀調の中にも力強さを感じさせる林光作曲のテーマ音楽がいいです。林光は「国盗り物語」「花神」のテーマ曲も担当していますが、どれも歴史大河らしい格調の高い、名曲です。それに引き換え最近の…とかはあんまり言いたくないんですけど、やはり近頃の大河ドラマの、フニャフニャした音楽はダメだなあ。。。まあ、音楽だけじゃなく、歴史ドラマ作りにおける基本姿勢自体が違うんですけどね。。。
物語は、織田・徳川連合軍による甲斐・信濃攻めから始まり、関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て、最後は二代将軍秀忠(中村梅雀)の命により信幸が父祖以来の地・上田を離れ松代に移封されるまでの、真田家の姿を描きます。
と言ってわかるように、このドラマの主役は豊臣方に加担して華々しく滅びた有名な弟・幸村ではなくて、徳川方についた地味な兄・信幸の方。私も正直言ってこのドラマを見るまで真田信幸のことはよく知りませんでしたが…いや、でもこの渡瀬恒彦演じる兄上様が渋くていいのです。数々の苦難を冷静な判断と忍従で乗り越え、領民を愛し家臣を愛し、真田の家を守り抜いた生き方にもひとつの理があったことが、渡瀬の存在感ある演技によって納得させられます。
真田幸村の実像は中肉中背の人物だったと言われ、原作にもそのように記されていますが、ドラマでは長身・美形の草刈正雄が演じています。小説は小説として、映像的には静の信幸と動の幸村の人物像をビジュアル的にも明確にする上で妥当な配役だったと思われますし、草刈正雄は武勇と智略に優れ己れの信念に殉じた幸村を美しく、そしてかっこよく演じています。
そして何と言っても丹波哲郎の真田昌幸。小国の領主ながら智謀の限りを尽くして戦乱の世を潜り抜けて行った昌幸とは、まさに現実もかくあったろうと思わせる、圧倒的な風格と迫力。尤も、丹波は何を演じてもいつも同じタンバリンなんですけどね。でも、この人が現れるだけで「大物」と納得させてしまうこんな役者さんは、もう二度と出てこないでしょう。
この3人を中心にして、更にもうひとつのドラマの見所は、草の者、つまり忍者の活躍。
真田の草の者の頭目・壺谷又五郎に夏八木勲、密かに幸村を愛するくのいちのお江に遥くらら、真田と敵対する甲賀忍者の頭目・山中大和守に佐藤慶、山中内匠に戸浦六宏、そしてお江を執拗に仇と狙う猫田与助に石橋蓮司と言う、一癖も二癖もある個性派俳優たち。中でも遥くららは元宝塚の、しかも娘役出身でありながら汚れた衣装を身纏って熱演。少年のように凛とした美しさの中に色気もあって、素敵でした。
ちなみにこのドラマ、当時の宣伝文句には「ホームドラマの要素を取り入れた」云々とあったように記憶しているのですが、それは戦乱の世を生き抜いた真田一族の親子、兄弟、そして郎党たちの情愛と結束を描く、と言う程度の意味合いであったかと思います。近年の大河は、単なる女性目線で描いた文字通り本当の「戦国ホームドラマ」化してしまっていますが…いや、その話はやめましょう。
家康役は前進座の大御所・中村梅之助。私がこれまで見た中での、ベスト・オブ・家康役はこの梅之助です。満面に人の良さそうな笑みを浮かべている時でも目だけが笑っていない、老獪な、まさに狸親父のイメージにぴったりでしたねえ。ちなみに、家康の息子・秀忠役の梅雀は、梅之助と実の親子で親子役。尤もこの当時はまだ有名じゃなかったので、名前も顔も似てるけど親戚かなあ?ぐらいにしか思いませんでしたが。
他にも榎木孝明、三浦浩一、細川俊之、小山明子、岡田茉莉子、加藤嘉、鈴木瑞穂など、当時の新進、中堅、ベテラン俳優が勢揃い。そうそう、翌年亡くなるアイドルの岡田有希子もちょこっと出ていました。まあ、この当時にはちゃんとした芝居のできる俳優とただの顔見世出演アイドルとの区分けがまだ厳然と存在していたわけで、大河ドラマがアイドル学芸会になってしまうような有様は、考えられなかった時代でしたね(って、やっぱり最後はそこに行き着いちゃうなあ。。。)

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江戸川乱歩「黒蜥蜴」より 悪魔のような美女

サイトに移動しました。
http://tvmovie.web.fc2.com/bijo/bijo08.html

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蔵の中

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横溝正史原作の映画化(1981年・角川春樹事務所製作/東映配給・高林陽一監督)。

物語。雑誌「象徴」の編集長・磯貝三四郎(中尾彬)のところへ、蕗谷笛二(山中康仁)と名乗る少年が原稿を持ち込んで来た。「蔵の中」と題されたその小説には、笛二と聾唖で結核の姉・小雪(松原留美子)との近親相姦的な生活が描かれていた。そればかりでなく、蔵の中から遠眼鏡で覗かれた磯貝と愛人(吉行和子)との愛欲の様子まで描かれ…

映像と文学とは別物、と言うことを、これほど如実に思い知らされる作品はないですね。
原作は金田一物を手掛ける以前(戦前)の横溝正史が描いた、幻想耽美な短編。作品の中にまた作品があるという凝った構成で虚構と現実の切れ目をぼかし、読者を幽玄の世界に誘い込みます。小説なら横溝の美文体で緊張感を失うことなく一気に読めるのですが、映像の方は…。
物語は大半が閉鎖された蔵の中に舞台が限定され、登場人物も姉役の松原と弟役の山中の二人っきり。従って、よっぽどこの二人が魅力的じゃないと観る者を退屈させてしまうのですが、案の定、これが相当酷い。
姉は聾唖者と言う設定なので、姉の思っていることも含めて、全て弟役の山中の台詞のみで進行するのですが、丸っ切り棒読み口調の素人芝居。それを延々見せられるのはかなり苦痛です。時折、中尾彬と吉行和子、プロの大人俳優の方へと場面が切り替わる時だけ思わずほっとします。顔立ちも格別美少年てわけでもないし…もうちょっとマシな俳優はいなかったのでしょうか。
姉役の松原留美子はニューハーフのはしりだった人ですが、やはり男にしか見えないし、別に美しくも何ともありません。ホンモノの女である吉行和子の方が(当たり前ですが)遥かに妖艶で美しいです。倒錯した題材だからキャスティングまで倒錯させたのでしょうが、ここは普通に女優でやって欲しかったところ。裏の裏は所詮表にしかなりません。同じ監督の「本陣殺人事件」(1975年、ATG)は横溝映画化の最高傑作と思っているだけに、勘違いした駄作っ振りにガッカリです。
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ガラスの仮面

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「ガラスの仮面」(美内すずえ)を知ったのは、テレビアニメがきっかけでした。
勿論最近のものではなく、第一回目のアニメ化です。私は男だし、少女漫画にも興味のないタイプなので、それまでこの作品のことはたぶん知らなかったでしょう。偶々テレビをつけた際に、
「ガラスのようにもろく壊れやすい仮面。人は素顔を隠してそれを被る…」
と言う、何やら思わせぶりなOPナレーションに惹かれて見入ってしまい、結局最後まで観てしまいました。
尤も、この時のアニメ化で扱われていたのは原作の初期、コミックスで言うと11巻か12巻の、確か「奇跡の人」の舞台あたりまでで話が終わっていたように記憶しています。なので、思いっ切り消化不良。「紅天女」はどうなった?マヤちゃんと速水さんは?と気になり、これは原作を読まずばなるまい!とコミックスを買い込んで、読み耽った次第です。
その時点でコミックスは既に26巻ぐらいまで出ていたのかな。連載8年目ぐらいですから、物語はかなり進行していて、と言うより、そろそろ佳境に近づいている感じでしたね。…って、まさか、いまだに完結しないとは夢にも思いませんでした^^;
マヤちゃんや桜小路クンと同年代だった私も、とっくに速水さんの年齢を越してしまいました。今の年齢に近いのは姫川歌子…男だと「劇団オンディーヌ」の小野寺?トホホ…せめて月影先生や速水の親父さんに達する前に完結して欲しいものです^^;
それはともかく、山あり谷ありの大河演劇ロマンと言ってもいい長編漫画ですから、見所、読み所は数え切れないです。私個人が特に好きなのは18巻から23巻あたり。芸能界を失脚したマヤが学園裏倉庫の一人芝居で再起し、更に野外劇場の舞台を経て、復活を遂げる展開です。挫折から創意工夫を重ね、周囲の励まし、協力で再起するストーリーは、誰が読んでも共感し易い部分ではないでしょうか。
既に指摘されていることでしょうが、この漫画はスポ根演劇漫画、演劇界の「巨人の星」の如き要素があります。喩えて言えば北島マヤ=星飛雄馬、姫川亜弓=花形満、月影千草=星一徹…マニアックなところで憎まれ役の乙部のりえ=速水譲次とか(違うか)。叩き上げのマヤちゃんより、エリートの亜弓さんの方がしゃかりきになって「ライバル」「ライバル」と一人で騒いでいるところも似ています。

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「私のライバル…!」白目を剥く亜弓さん。

あと個人的には、「水戸黄門」の要素もあるんじゃないかと思っているんですが。どこにでもいる平凡な少女が実は「あの助演女優賞を取った!」「『紅天女』候補の!」「天才演劇少女・北島マヤ!!」と知って周囲が驚愕する様は、まさに、田舎爺が実は天下の副将軍!と言うパターンそのもの。これぞ日本人好みのスパイスなのではないかと思われます(ほんまかいな)

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マヤの正体(?)を知って一同仰天!


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金閣寺

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三島由紀夫の同名小説の映画化(1976年・たかばやしよういちプロ+映像京都+ATG・高林陽一監督)

物語。母親(市原悦子)の不倫と初恋の女性・有為子(島村佳江)の冷酷な仕打ちによって心を屈折させている溝口(篠田三郎)は、父の遺言によって金閣寺の徒弟となる。大学に進学した溝口は友人の柏木(横光勝彦、現・横光克彦@民主党代議士)の手引きで、次々と女を犯す機会を与えられるが、その度に突如現われる金閣寺の幻によってセックスを妨げられる。溝口は自分を支配し無力化する金閣を憎悪し…

「炎上」(1958年・大映・市川崑監督)に次ぐ二度目の映画化。
「炎上」が原作から三島特有の毒や観念性を全て削ぎ落として奇麗事に終始していたのに比して、本作の方がより原作に忠実です。「母乳飛ばし」も「妊婦の腹踏み」もちゃんと描かれているし^^;尤も、「炎上」にあって、本作には描かれていないものもありますので、両方合わせて観ることで漸く原作一冊分に近づく、と言った感じでしょうか。
詳細な感想を書きたいのですが、なかなか解釈の難しい作品なので、うまく纏められそうにありません。とりあえず今は思いついたことだけを大雑把に書き留めておきます。

『金閣寺』と言えば、まず思い浮かべるのが主人公の「吃音」です。
「炎上」では、市川雷蔵さんが激しく吃る迫真の演技をみせていたことが印象に残っています。しかし、本作の篠田三郎は殆ど吃っていません。単にちょっと「口下手」な人と言う程度。ゆえに吃音は、本作では物語の上で何の意味も持っていません。この点において「炎上」とは主題を分けています。
「炎上」の主人公は吃りによって他人との間に壁ができてしまい、人間関係から遠ざけられていました。そういう意味では本作の場合、主人公は孤立していないし、そもそも人間関係自体にあまり関心がないようです。しかし、別の意味で他者から孤立してはいます。

主人公、溝口は女性とのセックスに及ぼうとするや必ず金閣の幻影が現れて来て身も心も萎えさせてしまうので、童貞のまま。つまり「人生を獲得するため必要な関門」を通り抜けることができません。彼は金閣によって「性=生」から妨げられているのです。
「女は俺の成熟する場所だった。 書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」とは、小林秀雄の「Xへの手紙」の一節ですが、その意味で成熟できない、つまり、「大人」になれない溝口は、いつまでも現実から遊離した観念の世界だけに生きています。と言うより、現実から拒まれてしまっている分、ますます観念だけが肥大化している、と言うべきでしょう。

それにしても、何故金閣は主人公を「性=生」から妨げているのでしょうか。
「この世で最も美しいもの」金閣と並んで、主人公のトラウマになっているのが「母の裏切り」「有為子の裏切り」です。
少年時代、自分と父の目の前で若い男との情事に耽っていた母親。
自分を冷たく袖にしただけではなく、愛人を裏切って殺された有為子。
性は汚い。人生も醜い。必ず裏切る。しかし金閣は美しい。永遠に裏切らない。「性=生」とは対極にあります。主人が汚れた現実の方へ流れて行こうとするのを、金閣が引きとめているようであります。
彼は自分を人生から拒んでいる金閣の支配から脱するために、火を付けるに至るのです。最後に主人公は、金閣を滅ぼし、犯したことに性的興奮を覚えたかのようにタバコをむさぼり吸っているシーンでこの映画は終わります(ここの部分は原作に符合しています)

ちなみに「炎上」と同じく、本作も金閣寺側からロケ協力を得られなかったために実際の金閣を撮影することができませんでした。しかしそこはさすが全盛期の大映、「炎上」ではなんとセットで建ててしまったのですが、貧乏所帯のATGにはそんな金があるはずもありません。従って本作では、劇中に金閣が一度も姿を現しません(象徴的に暗示されるのみ)。しかし結果的にはこれが良かったと思います。この映画で主人公にとって金閣は現実の存在と言うより、観念的な美の象徴だからです。実在する金ぴかの金閣が可視的になってしまっては、却って安っぽいものになってしまうでしょう。

篠田三郎と言うと、私の中では今でも吉田松陰(by「花神」)または源実朝(by「草燃える」)の印象が強いです。つまり「純粋」「一途」なイメージ。いつまでも少年の面影があります。本作でエロなシーンがあまりいやらしくならないのは、清潔感のある篠田さんを起用した効用でしょう。この当時、溝口の役を演じるなら確かに篠田三郎しかいなかったと思うし、まことに当を得た配役だったと思います。
島村佳江さんには「新人」の表記があります。メイクのせいか、私の知っている時代の佳江さんとは、少し印象が違う感じもしますね。ドスが効いていると言ったらちょっと違うのですが、彼女の射るような目と独特の声は一度見たら(聞いたら)忘れられません。出番は少ないのですが、これまた有為子役に適任だったと思います。
意外に?と言ったら失礼ですが、好演だったのは横光克彦。紅林警部補@特捜最前線の生真面目な印象が強かったのですが、主人公を邪悪に導くメフェスト・フェレス的な役割を見事に演じていました。
市原悦子は昔からオバサン。再三現れる情事のシーンは、正直言って、見たくなかったです^^;
柴俊夫(鶴川)と篠田三郎とのツーショットは、どっかで見たと思ったら、NHKドラマ「天下堂々」のコンビだ。内田朝雄(老師)はまさに「怪物」と言う感じ。寺島雄作(溝口の父)は大映時代劇の脇役でお馴染みだった人。「本陣殺人事件」もそうでしたが、大映京都の後身、映像京都が製作に携わっているせいか大映京撮の俳優さんが結構出ていますね。ほかに加賀まり子(生花の師匠)、水原ゆう紀(洋館の令嬢)、テレサ野田(まり子)など。
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炎上

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原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』(1958年・大映・市川崑監督)

物語。昭和19年、溝口吾市(市川雷蔵)は亡父(浜村純)の遺言により驟閣寺の徒弟となる。吃音コンプレックスのため周囲から孤絶している溝口にとって、唯一の心の拠り所は父から「この世で最も美しいもの」と教えられてきた驟閣であった。しかし戦後、驟閣が俗化していく様に溝口は失望する。更に友人の戸刈(仲代達矢)から、尊敬していた老師(中村鴈治郎)が戒律を犯して女色に溺れていることを知らされ不信と絶望に陥る。驟閣が汚れることから守るため、溝口は放火を決意する…

三島由紀夫の『金閣寺』は二度映画化されています。
一度目が本作で、二度目がその18年後(三島死後)にATGで製作された「金閣寺」(1976年・高林陽一監督)。
本作の場合、実際の金閣放火事件(1950年)の記憶もまだ生々しく残っている時期の映画化と言うことで、フィクションであることを明確にするため原作の金閣寺を驟閣寺という架空の寺に変え、タイトルも「炎上」に変更されています。
更に、違っているのは名前だけではありません。原作から「性」に関する描写やテーマそのものがすっぽりと抜け落ちています。

まず、主人公の初恋の人であり運命の女性である有為子が登場しません。「妊婦の腹踏み」(^^;)や生花の師匠の「母乳飛ばし」(^^;;)のシーンがありません。肝心の「セックスを妨げる金閣の幻影」のイメージも全く出てきません。
市川崑監督自身の美意識もあったろうし、時代的な制約もあったろうし、或いは大映の看板スターである清潔な雷蔵さんに、そんないやらしい役はやらせられないと言う、営業的な制約もあったかもしれません(ちなみに「眠狂四郎」はまだ先)。
いずれにしろ、これだけ骨抜きにされてしまっては、もはや三島原作とは言い難いです。三島作品に素材を借りたオリジナル映画作品と捉えた方がいいのでしょう。

例えば、映画の冒頭は、放火事件後に主人公が警察で尋問されるシーンと言う、原作には全くないエピソードから始まっています。小説は一人称による「私」の主観的視点で書かれているのに対し、映画では、全く逆のベクトルで、第三者の視点からアプローチしているわけです。実際、文学ならいくらでも内面描写が可能なわけですが、映像ではそうも行きません。その為、母親(北林谷栄)との関係、老師(中村鴈治郎)との関係の描写に原作以上の比重を置くことで、主人公の内面を外側から浮き彫りにする作業を行っています。

吃音によって人間関係がスムーズに結べない主人公は、他人からも社会からも孤絶してしまっています。一見、慈悲に満ちた理解者の如く装っていた老師もまた単なる俗物の偽善者に過ぎず、戦後俗化して汚辱に塗れて行く驟閣の体現者であるかのよう。おまけに、障害を逆手にとって世の中を斜に構えて見ているかのようだった友人の戸刈も実は強がりを言っているだけの一個の弱者であったことを暴露してしまいました。人間にも現実にも、全てに絶望してしまった主人公は、驟閣に火を付けるに至るのです。
ここで驟閣(金閣)は、観念的な美の象徴と言う意味合いを全く与えられていません。専ら主人公にとっては、亡き父の愛した「親和的な存在」以外の何者でもありません。しかし原作の場合、親和的であると同時に自分の生を無力化する「目の上のたん瘤」でもあるという、むしろ愛憎半ばする存在と言う感じだと思うんですけどね。従って、原作の主人公が金閣を燃やした後で「生きようと思っ」て終わるのに対して、映画では、世俗的現実から驟閣の永遠の美を守ったことだけでもはや満足してしまったかのように、抜け殻になって自ら死を選ぶのです。

主演の雷蔵さんは、これが現代劇初出演でした。当時の若手人気スター、言わばアイドルが坊主頭になって、吃りの、それも放火犯を演じたのですから、大映内部からは反対の声も上がったようですが、雷蔵さんはそれを押し切って自らの出演に固執したとのこと。常に上目遣いで口を半開きにして、世間と自己の内面とのギャップに悩む主人公を見事に演じています。演技者としての己れを徹底するこの姿勢は、所詮演技を片手間にやってるに過ぎない今時のタレント風情にはマネできないことでしょう。
中村鴈治郎も二面性のある人間くさい老師を好演しています。あと浜村純って、1950年代から90年代までのどの作品を見ても、いつも殆ど同じで変わらないのが不思議ですね。
(過去記事を改稿しました)
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関連タグ: 三島由紀夫 仲代達矢 市川崑 大映

電送人間

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東宝の特撮スリラー物(1960年・東宝・福田純監督/円谷英二特技監督)

物語。遊園地のスリラーハウスで殺人事件が発生。犯人は現場から忽然と姿を消し、被害者は銃剣で胸を刺され旧陸軍の認識票を持っていた。東都新聞の桐岡(鶴田浩二)と小林警部(平田昭彦)、岡崎主任(土屋嘉男)たちは捜査を開始する。同じ頃、突然届けられた認識票に怯える3人の男(河津清三郎、田島義文、堺左千夫)がいた。彼らはかつて終戦のドサクサに軍の金塊を横領しようと企み、阻止しようとした須藤兵長(中丸忠雄)を殺害した過去があったのだ。そんな彼らの前に、死んだはずの須藤が現れ…。

当時の映画俳優の大部分は会社との専属契約制なので、どんな映画に出るかは会社の指示であって、役者さんの意思はあんまり入っていません。それでも平田さんや土屋さんなどはご自身が特撮物好きで出ていたのに対して、鶴田さんや中丸さんはそうじゃなかったようで、特に鶴田さんはこの頃既に大スターでご本人も「天下の鶴田浩二」と思っていたのにB級スリラー映画に出演させられてショックだったのか、この後すぐ東映に移っちゃったみたいです。観ている方としても、確かに1人だけ場違いな人が出ているようで、何だか落ち着きません。
お話は至極単純で、復讐の念に燃える須藤こと中丸忠雄が電送装置を使って瞬間移動を行い、殺人を繰り返す、というもの。「変身人間シリーズ」の一つと位置づけられているようですが、マタンゴのように人間自体変身してしまうわけではなく、単に電送されて移動するというだけなので、特撮色は薄いです。しかも、電送装置の置いてあるところまでは普通に走って逃げるだけというのがちょっと情けない。常に無表情で、やたらと強くてサイボークみたいな中丸さんは、アーノルド・シュワルツネガーみたいでカッコいいのですけど。
戦争の過去を引きずった怨念、と言う背景は後年のTV番組「怪奇大作戦」を連想させるものがあります。言いかえると、本来なら30分程度でも済みそうな話を引き伸ばしているだけので、ちょっと緊張感や盛り上がりに欠けますかね。ヒロインとして白川由美なんかも出てくるのですが、ただの添え物と言う感じで存在感がありません。
鶴田浩二はこの頃35歳ぐらいですか。私がリアルタイムで知っているのは中年以降の、あの吉岡指令補@男たちの旅路の頃の渋い鶴田さんなので、まだ若くて皺も少なくて、のっぺりした甘い優男時代の鶴田さんは別の人を見ているようです。白川由美と顔を見合わせて照れるシーンなんかでは、見てるこっちも照れくさくなったりして^^;
内容もさることながら、昔の映画を観ていて面白いのは当時の風俗です。河津清三郎たちの経営しているキャバレーの名前が「DAIHONEN」、つまり「大本営」で、ボーイが兵隊、ホステスは水兵(文字通りセーラー服)の格好していて、お酒の呼び名も「焼夷弾」とか「ミサイル」とか…これは所謂「軍隊バー」「軍隊キャバレー」と言うやつですね。話には聞いたことありましたが、本当にこういう形式で営業していたのでしょうか。
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怪人二十面相

nijumensou.jpg前に書いたように、ポプラ社の「少年探偵・江戸川乱歩全集」旧版27巻以降(大人小説のリライト物)は5冊しか持っていないのですが、26巻まで(オリジナル少年物)は、当時のものが今でも21冊ばかり手元にあります。念のため記すと、欠けているのは18『魔法博士』19『灰色の巨人』20『魔人ゴング』23『悪魔人形』25『黄金の怪獣』の5冊です。全部揃わなかったのは、単にお小遣いが足りなかったからですが、この5冊を特に除外して買わなかった理由はよくわかりません。何となくつまらなそう、或いは表紙や挿絵が気に入らない(定番の柳瀬茂氏じゃない)、と言ったことからでしょうか。
それはさておき、先日からその21冊のうち何冊かチョイスして読み返していました。当たり前の話ですが、少年時代に読んでいた時のような感興はなかなか甦って来ません。特に後半期の作品、つまり怪人、電人、宇宙人などが跳梁跋扈する話は少し退屈です。どんな奇怪な化物が現れても、その正体が怪人二十面相であることはバレバレだし、宇宙人やロボットにしては、やることがみみっちい上に、最終目的は所詮明智小五郎と少年探偵団への復讐なんですから、ガックリです。この情けなさは、世界征服を謳いながら幼稚園バスを襲うショッカーの怪人を彷彿させるものがありますね^^;
それに比べると、戦前に書かれた初期の作品はまだしもグレードが高いです。だいたい、ポプラ社版を比較してみても、後半作の多くは大きな活字でページを組んで全体のぺージ量を増やして、薄い中身を誤魔化しているのですが、初期作品は小さい活字で1ページにびっしり。分量も内容も濃いです。
中でも『怪人二十面相』は第1作目と言うことで、子供向けとは言え乱歩も力が入っていたのでしょう、面白さは群を抜いています。

そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気の挨拶でもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。

と、こんな書き出しで始まる『怪人二十面相』は、最初から二十面相と呼ばれる怪盗の存在を明示しています。単なる愉快犯に堕落してしまった後半期と違い、この頃の二十面相は美術品しか狙わず、犯行の際には必ず「予告状」を送りつけ、血を見るのが嫌いな正真正銘の「怪盗紳士」。その二十面相が羽柴家の財宝に目を付けるところから物語は始まるのですが、一方で、我らが名探偵・明智小五郎はまだ姿を現しません。明智は外国出張中と言うことで、代わりに「りんごのようなほおをした」美少年の助手・小林少年が登場します。この小林少年の活躍でひとまず盗難は阻止され、やがて中盤になって漸く明智が外国から戻って来て、登場します。しかもそこへ、外務省の役人に化けた二十面相が、大胆不敵にも明智を東京駅まで出迎えに現れるのですから、ボルテージは最高潮に上がります。ステーション・ホテルの一室で、二人っきりで明智と差し向かいになった二十面相は、さも親しげに語りかけるのです。

「明智さん、ぼくは、どんなにかきみに会たかったでしょう。一日千秋の思いで待ちかねていたのですよ」

対する明智も負けていません。

「ぼくこそ、きみに会いたくてしかたがなかったのです。汽車の中で、ちょうどこんなことを考えていたところでしたよ。ひょっとしたら、きみが停車場に迎えに来ていてくれるんじゃないかとね」

ああ、なんと格調の高い名場面でしょうか!…と、読んでいるこっちも思わず乱歩の語り口調になってしまうような^^;明智と二十面相との初コンタクトシーンの描写です。名探偵と怪盗が、表面はにこやかに談笑をかわしながら、腹の中で火花を散らす、息詰まる心理戦…。このあたりのくだりは、今読み返していても思わずワクワクしてくるのですから、子供時代に初読した時には、さぞかし心を躍らせたことでしょう。余談ですが、私はこの中の「一日千秋」と言う言葉を知って気に入ってしまい、当時、国語の作文では意味もなく連発していたような気がします^^;
物語の後半は、いよいよ明智と二十面相、「巨人」と「怪人」との、知力を尽くした直接対決。傍若無人にも国立博物館のお宝を全て頂戴すると予告し、真っ向から明智に挑戦して来た二十面相の恐るべき策略とは?迎え撃つ明智の秘策は?そして小林少年と少年探偵団の活躍は?…と言う訳で、最後まで盛り上がりにこと欠きません。
ちなみに「少年探偵団」はこの第1作目で、物語前半の登場人物・羽柴少年の音頭で小林少年を頭に仰いで結成され、ラストシーンの国立博物館前での二十面相捕縛に活躍しています。シリーズ定番の「明智先生ばんざーい、小林団長ばんざーい」による〆も既に始まっています。後年、上野の博物館に行った時には「ああ、ここで二十面相が逮捕されたのかぁ」と感慨深かったです^^;


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