田宮二郎の時代劇

同じ大映にいながら全く接点がなかったのが田宮二郎と市川雷蔵だ。2人は1度も共演していない。雷蔵は京都で時代劇中心、田宮は東京が拠点の現代劇俳優だったせいもあるが、川崎敬三や川口浩は時代劇で雷蔵と共演しているのだから田宮にもできないことはない。一説では二人を共演させないのは社長の永田雅一の方針だったと言うが、大映オールスターが出演する大作映画にも田宮が出なかったため同じプログラムに名前が載ることすらなかった。
そもそも田宮には時代劇への出演歴そのものが殆どなく、生涯でたった3本だけ。時代劇全盛時代の俳優でこれほど時代劇と無縁だった人も珍しい。
その数少ない時代劇出演の最初は「お兄哥さんとお姐さん」(1961年)。「悪名」で名を挙げた直後に再び勝新太郎とのコンビで出演した作品である。とは言え田宮は物語の最初と最後に顔見世的な出演をしているだけだった。八州廻りの侍役だったがあまり様になっているとは言えず、これで時代劇に不向きと判断されたのか大映時代は二度とお呼びがかかることがなかった。
hissatsu0101.jpg
2本目は12年後、松竹の「必殺仕掛人」映画版(1973年)で針師の梅安役。役柄上、髷姿ではなく坊主頭(と言うよりスポーツ刈りっぽい頭)なのであまり時代劇と言うイメージがしない。松竹は映画版をシリーズ化するが、2作目から梅安役はテレビ版と同じ緒形拳に替わっている。
musashi7301.jpg
3本目にして最後の時代劇出演は引き続き松竹の「宮本武蔵」(1973年)で、高橋英樹演じる武蔵のライバル佐々木小次郎役。 長身なので「物干し竿」と言われる長剣を背負った立ち姿やニヒルな風貌はカッコいいのだが、台詞回しが現代劇口調なのでやはり時代劇向きではない感じがする。
ちなみに「木枯し紋次郎」の原作者笹沢佐保が紋次郎のモデルにしたのは田宮二郎だったが、テレビ化に際しては監督の市川崑の意向で中村敦夫に決まっている。もし田宮が演じていたらその後の運命も違っていたかもしれない。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映
スポンサーサイト

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

川口浩と田宮二郎

川口浩が大映退社前に出演した最後の映画は「秦・始皇帝」(1962年11月)である。前年の「釈迦」に続く70ミリ大型映画第2弾として製作されたこの作品には、主演の勝新太郎を始め市川雷蔵、長谷川一夫、本郷功次郎、川崎敬三、倒産した新東宝から移籍した宇津井健ら大映オールスターが出演している。だが出演していないスターもいる。田宮二郎である。
川口と田宮は同じ年に大映入りし年齢もほぼ同じ(田宮が1つ上)。だがスターとして活躍した時期がずれているため同時代の映画俳優と言う印象が薄い。川口が華々しく主演デビューした1956年に田宮は大映第10期ニューフェイスとして入社。デビュー作は1957年8月公開の「九時間の恐怖」とされているが、実際に初めて名前(当時は本名の柴田吾郎)がクレジットされたのはその前の「満員電車」(1957年5月)であり、主演の川口浩とも初共演している。役柄は川口と同窓の大学生役、卒業式で川口に「どうした?無理すんなよ」と声をかける冒頭シーンだけの出演だった。
manindensya0101.jpg
その後も同期の叶順子や石井竜一がいち早く青春スターとして抜擢されていくのに対し、田宮にはなかなか芽の出ない日々続く。58年1月公開の「東京の瞳」(若尾文子主演)で川口と2度目の共演をしているが、6月公開の川口の主演作「巨人と玩具」ではクレジットにも載らないエキストラ扱い。だが芸名を田宮二郎に改めた59年から主演女優の相手役として起用されるようになり、1959年5月公開の「私が選んだ人」では実生活で川口と結婚する野添ひとみの結婚相手を演じている。 何故かこの作品が田宮の初主演作とされていることが多いのだが、ポスターもクレジットも野添に次ぐ二番手だしストーリー上から考えても準主演だろう。初めて田宮の名前がトップに来るのはその次の「代診日記」と言う作品である。とは言えこの作品はSP(ショートピクチャー)と呼ばれる60分余りの添え物映画であり、まだ二軍のスターの域を出ていない。一時は俳優を辞めようと思ったこともあったようだが、61年に勝新扮する主人公朝吉の弟分モートルの貞役を演じた「悪名」が大ヒットし、漸くスターとして認知される。翌62年には田宮の主演作4本に対し川口は1本と逆転。その年限りで川口は芸能界を去り、2人がスターとして並び立つことはなかった。
ちなみに川口は5年後に俳優業に復帰し大映にも1度だけ出演しているが、その時に田宮の姿はなかった。前年に社長の永田と喧嘩して大映を退社していたのだ。やがて田宮がテレビドラマに主軸を移した頃に川口は再び俳優から足を洗ってしまっている。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

大映東京撮影所

大映京都撮影所はなくなったが大映東京撮影所は角川大映スタジオと名を変えて今も調布市の同じ場所にある。だがその規模は遥かに小さくなっている。
「日本映画最盛期の大映東京撮影所時代は、2013年時点の敷地に加え、隣接する調布南高校も、前の道を挟んで駅方向まで占める大規模マンションもなく、京王相模原線の線路の辺りまでずっと撮影所の敷地。撮影所の門は駅前にあったと言います。敷地内には特撮用のプールがあり、夏になると撮影所スタッフが泳いでいたそうです」
(「調布市立図書館 まちの資料情報館」より)
daieimap17.jpg

国土地理院の航空写真で変遷を辿ってみる。

193609.jpg
1936年(昭和11年)9月(開所3年目)。

194708.jpg
1947年(昭和22年)8月。

195710.jpg
1957年(昭和32年)10月。

196108.jpg
1961年(昭和36年)8月当時。

197104.jpg
1971年(昭和46年)4月(大映倒産の8か月前)。

197501.jpg
1975年(昭和50年)1月。

201701.jpg
現在。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:映画関連ネタ - ジャンル:映画

川口浩と石原裕次郎

1960年に作家の三島由紀夫は俳優として大映映画「からっ風野郎」(増村保造監督)に主演した。この経験をもとに書いたのが「スタア」と言う短編小説だ。 主人公は当時流行の太陽族を思わせる若手人気俳優である。 なので初読以来、てっきりモデルは日活の石原裕次郎だろうと思っていた。しかしあとあと考えてみると、半分は大映の川口浩かもしれないと言う気もする。 「からっ風野郎」も大映だったし、「スタア」には大映の長谷川一夫を思わせる老醜の二枚目俳優も出てくる。そして何より川口自身が裕次郎と並ぶ太陽族俳優だった。
日活の太陽族映画第1作「太陽の季節」が公開されたのは1956年5月。ただし主演は長門裕之と南田洋子であり、裕次郎も出ているがまだチョイ役だ。 1か月後の56年6月、今度は大映で川口浩主演の「処刑の部屋」(市川崑監督)が公開される。川口は4月にデビューしたばかりでこれが2作目だった。 更に1か月後の7月に裕次郎初主演作 「狂った果実」が続く。当時はこの3本が太陽族映画と称され、そこに描かれた若者の不道徳な生態が世間の物議をかもしたと言う。
shokeinoheya0111.jpg
http://tvmovie.web.fc2.com/daiei/shokeinoheya.html
その後裕次郎は日活の、川口は大映の若手トップスターになる。裕次郎は言うまでもなく石原慎太郎の弟、かたや川口も直木賞作家で大映重役だった川口松太郎と女優三益愛子の長男と言う七光りもあった。尤も人気では裕次郎が水をあけていたようだが、川口も『巨人と玩具』『おとうと』などの文芸映画に出演して名を高めている。1960年に裕次郎が共演者の北原三枝と結婚すると、同じ年に川口も野添ひとみと結婚。
だが、二人とも自ら望まずに若くしていきなりスターになったせいか長く俳優業を続ける気はなく、特に裕次郎は「俳優は男子一生の仕事にあらず」と公言して憚らなかった。これは当時のお坊ちゃん俳優に共通するのか大スター上原謙の息子である加山雄三も同じようなことを言っていた。実際に川口は1962年、26歳の若さで俳優業から引退し実業家として高級マンション「川口アパート」の経営に乗り出す。一時は俳優業にも復帰し「キイハンター」などに出演するが、70年に川口浩探検隊の前身『ザ・ショック!!』を自ら企画し出演。 一方の裕次郎は斜陽化する映画界を見捨てておけなくなったのか62年に石原プロを立ち上げ映画製作にのめり込んでいき70年代はテレビドラマ「太陽にほえろ」に出演。言葉とは裏腹に俳優業を続けることになっている。個人的な記憶にあるのはこの頃からなので、たまに二人が若い頃の映画をテレビで見ても同一人物に見えなかった。精悍なアクションスターだった裕次郎が当時は顔色の悪い浮腫んだ中年になっており、お坊ちゃん顔だった川口がジャングルを切り進むカーリーヘアの探検隊長になっていたからだ。
同じ年に太陽族スターとしてデビューしてその後違う道を歩いた二人は奇しくも同じ年に亡くなっている。1987年7月に52歳で亡くなった裕次郎の葬儀は盛大を極めたが、4か月後に51歳で亡くなった川口の方も「探検隊長」としての知名度の高さでそれなりの話題になった。
tankentai0101.jpg


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

高校三年生

喜劇ほどではないが、大映は青春物もあまり得意ではなかったようだ。1962年のニューフェイスで青春スターとして売り出された倉石功によれば、 「青春物に重きを置いていなかった永田雅一社長の鶴の一声」で中止になってしまった映画もあると言う。 そのため折角釣り上げた大魚を逃してしまったこともある。 1963年にデビュー曲「高校三年生」を大ヒットさせた舟木一夫だ。 前の記事でも書いたように当時はヒット曲にあやかった歌謡映画が流行っていた。 既に大映も御三家の先輩・橋幸夫のヒット曲「潮来笠」などを立て続けに映画化していた。 「高校三年生」も大映で映画化されることになり、舟木の故郷一宮でロケして63年11月に公開された。 ただし主演は倉石功と姿美千子、高田美和の大映青春スターで舟木は助演である。 それでも舟木の人気で映画館に行列ができるほどヒットし、大映では舟木の2曲目「修学旅行」も映画化する予定だった。 ところが大映では社長の永田が全ての決定権を握っている上、肝心の永田は海外出張中だった。 そのため最終決定が遅れてモタモタしているうちに、しびれを切らした舟木の事務所が日活に話を持ち込んでしまう。 以降、舟木のヒット曲は日活で映画化されることになった。
koukousannensei0102.jpg
http://tvmovie.web.fc2.com/daiei/koukousannensei.html

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

大映の興亡

一言で大映を言えば「永田雅一が興し、そして潰した会社」に尽きる。大映は戦争で生まれた特異な会社だった。他の企業同様に映画会社も戦時統制を受け、当初は松竹、東宝の2社に統合される予定だった。ところが新会社=大映を加えた3社制とするように運動したのが永田雅一だった。更に戦後、他の国策会社同様に大映も解散の運命のはずだったが、またしても永田の工作で大映のみが生き延びた。つまり永田なくして大映はなかった。だが国策メーカーと言う出自が後々致命的欠陥にもなる。戦時中は映画配給が公社に一元化されていたため大映は製作だけしていればよかった。しかし戦後、各社の自主配給制になっても興行力の強化には不熱心だった。「いい映画さえ作っていれば必ず客が来る」と言う素朴なカツドウ屋気質が抜けなかったのだ。従って他社のような経営多角化も行わなかった。
そのくせ大映は映画会社としてのカラーがはっきりしなかった。松竹なら家庭劇、東宝はサラリーマン劇のように特徴が一言で言えるが、もともと国策で人為的に生まれた大映にはそれがなかったのだ。強いて言えば旧日活を継承した時代劇の会社ということになる。だが その一方で芸術志向も強いため、後発の東映がより大衆娯楽的な時代劇を売り物にするようになると大映の旗色は悪くなる。永田は嘆いて「大衆は大映のカステラより東映の饅頭を好む」と警句を吐いたものだ。社長は派手好きで下品なのに不思議と映画は地味に上品で真面目なのだ。それが末期に他社との差となって出た。
1960年代、日本映画界はどこも苦しかったが、東映はやくざ映画で乗り切り、松竹と東宝は喜劇映画で凌いだ。 だが大映にはどちらもできなかった。東映の真似をしてやくざ映画を作ったが、上品な大映には東映ほど迫力がない。しかも大映には喜劇が作れない。 大映は時代劇あり文芸物あり現代劇のサスペンス物あり、そして特撮もありとジャンルの広い会社だったのに、何故か喜劇だけは全くダメ。 いい例がクレイジーキャッツの使い方だ。クレイジー映画を最初に作ったのは大映だったが、クレイジーは添え物に過ぎず、ヒット曲を素材に使っただけの歌謡映画に過ぎなかったため失敗。やがて東宝に転じたクレイジーは東宝のドル箱になった。東宝には他にも社長シリーズや駅前シリーズがあり、松竹にも旅行シリーズやドリフの全員集合シリーズあり、そして最大のドル箱「男はつらいよ」シリーズに至るが、大映は最後まで一本のヒット作も作れなった。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

大映ドラマに関する珍説

80年代に一世を風靡した大映ドラマと言えば感情表現が強烈で大げさな台詞が今でも語り草になっている。 これについて作家の小林信彦は時代劇の影響を挙げているらしく、その説がwikipediaにもまことしやかに引用されている。
「第二次世界大戦前には時代劇を売り物にしていた映画会社・大映が、第二次世界大戦の結果、GHQ占領下の日本では時代劇が禁止されたため、時代劇スターが現代劇を演じざるを得なくなった為、その大げさな芝居の時代劇の乗りによる現代劇に大映ドラマのルーツを求めている」(wikipedia「大映テレビ」より)
原文を読んでいないので真意は不明だが、本当にこの通りなら珍説だろう。時代劇禁止と言うが、大映は京都と東京に撮影所があり、京都で時代劇、東京では現代劇を専門に作っていてスタッフも俳優も別だった。従ってもともと東京で撮っていた現代劇には時代劇禁止の直接の影響がないのだ。そして大映テレビは映画時代から東京にあったのだから時代劇とは何の関係もないではないか。
百歩譲って大映ドラマが時代劇をルーツとする説が正しいとしよう。だとすれば大映映画の現代劇も時代劇の乗りの大げさな芝居だったはずだが、そのような印象は全くない。なのに何故戦前の時代劇が中間の大映映画をすっ飛ばして大映ドラマに隔世遺伝するのかさっぱりわからない。
むしろ時代劇の影響を受けたとすれば、大映ではなく東映のはずだ。何故なら小林の言う「現代劇を演じざるを得なくなった時代劇スター」とは、主に片岡千恵蔵を指す思われるからである。成程、時代劇を禁止された千恵蔵は戦後の大映で多羅尾伴内シリーズを初めとする時代劇調の現代劇を撮っていたことがある。だがそれらは全て京都撮影所の作品である。しかもまもなく時代劇が解禁され、大映京都で現代劇を作ることは殆どなくなった。
一方の千恵蔵は東映に移籍し多羅尾伴内シリーズを再開するが、今度は京都ではなく現代劇専門の東映東京撮影所で撮っていた。つまり時代劇乗りの現代劇が持ち込まれた本当の先は東映なのだ。千恵蔵はその後10年に渡って東西を往復しながら京都で時代劇、東京で現代劇を撮り続けている。なので「小林理論」を適用するなら、東映の現代劇にはさぞ大げさな時代劇調の芝居が受け継がれているのだろうが、東映には詳しくないのでわからない。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:ドラマ・映画 - ジャンル:テレビ・ラジオ

永田雅一とアカデミー賞

youtubeにアカデミー賞授賞式に於ける永田雅一大映社長の映像があった。 受賞作は「地獄門」(1953年、衣笠貞之助監督)、外国語映画賞と衣裳デザイン賞である。
jigokumonop.jpg jigokumon0111.jpg
永田雅一と国際映画賞と言えば黒澤明監督の「羅生門」(1950年)をめぐる逸話が有名である。 もともと永田は「羅生門」を酷評していたにもかかわらずベネチア国際映画祭でグランプリを獲得するや一転して自分の手柄にし、「黒澤はグランプリ、永田はシランプリ」と揶揄された…と言う訳だ。
一方この「地獄門」では役員全員の反対を押し切って永田が製作を強行し、見事にカンヌ国際映画祭でグランプリ、そしてアカデミー賞で外国語映画賞と衣裳デザイン賞に輝いた。"黒澤がいなくても賞は獲れる"と証したかったのだろう。
永田は1955年3月30日、ハリウッドで行われた第27回アカデミー賞授賞式に出席し二つのオスカーを手にした。

外国語映画賞を受賞した永田雅一

衣裳デザイン賞を受賞したイーディス・ヘッド(モノクロ作品部門「麗しのサブリナ」)と永田雅一(カラー作品部門)

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

関連タグ: 大映

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
最新コメント
管理人のサイト
土曜日の美女たち
管理者用
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR