『小説吉田学校』と『自民党戦国史』

自民党の麻生派と山東派が合流して新派閥を結成するらしい。

麻生・山東派、合流へ…細田派に次ぐ第2派閥に(読売新聞)
麻生・山東派が合流へ=今国会終了後、谷垣Gからも―自民(時事通信)

尤も合流と言えば聞こえはいいが、事実上は麻生派が山東派を吸収合併すると言うことである。ある意味、歴史的な出来事だ。と言うのも「三木派の系譜を継ぐ自民党結党以来の派閥」が消滅するからだ。
「三木派」とは三木武夫元首相が結成した派閥である。自民党最左派に位置づけられ、1970年代は「三角大福中」と呼ばれた五大派閥の一角を占めていた。 その後、河本派-高村派-大島派-山東派と代替わりする中で弱体化し派閥の性格も変わってしまったが、今も三木派の流れを汲む派閥であることに違いはない。
一方の麻生派は池田勇人元首相が創設した宏池会(現・岸田派)から分裂した一派だ。その源流は麻生の祖父・吉田茂元首相である。三木は、吉田とその弟子たち「吉田学校」の政治家とは対立関係にあった。その両者が合併するのである。昭和の派閥オタク的には感慨深い。
そこで思い出すのはかつて自民党の派閥抗争史を描いたベストセラー『小説吉田学校』(戸川猪佐武)と『自民党戦国史』(伊藤昌哉)である。

1970年代は自民党の派閥抗争が最も激しかった時代だった。1972年の「角福戦争」に始まり74年の「田中金脈」、76年の「三木おろし」、78年の「大福戦争」、79年の「四十日抗争」、そして1980年の「ハプニング解散」。主役は三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、そして中曽根康弘の5人の実力者だ。彼ら「三角大福中」がそれぞれ派閥を率い時に味方となり時に敵に別れ、離合集散しながら毎年のように自民党を二分する党内抗争が勃発し、新聞やテレビで「田中派が」「福田派が」と語られない日はなかった。現実に日本の政治を左右していたのは派閥による権力闘争なのだ。ところが当時、自民党の派閥史を解説した本は皆無に等しかったと言っていい。政治史の本はあったが学者が難しい理屈を並べているだけで派閥のことは無視していたからだ。
yoshidagakko.jpg 唯一と言っていいのは、戸川猪佐武の『小説吉田学校』(流動出版)だった。昭和20年代の吉田茂と鳩山一郎の抗争に始まり、40年代の田中角栄と福田赳夫の抗争や直近までの派閥抗争史が小説仕立てでわかりやすく描かれていた。小説と言う形式をとっているが、基本的には事実を書いているわけだし、そして何より人物描写が面白い。 口をヘの字にへし曲げた頑固な吉田茂とか、三白眼の三木武吉、凄みを利かせる河野一郎、茶坊主の大麻唯男など、実物を目の前にほうふつとさせるかのようだった。後に大下英治などの亜流が「小説○○」と言う形の政治本を書いても面白くないのは、単なるレポートに過ぎず「小説」になっていないからだ。
ちなみに当時の出版元だった「流動出版」とはいわゆる総会屋系出版社である。経営者は右翼系でありながら『新左翼運動史』『現代革命運動事典』など左翼関係の本も出版していた。従ってマイナー出版社であり、『小説吉田学校』も最初は多くの眼に触れることはなかっただろう。
ところが1981年(昭和56年)、なんと『小説吉田学校』が既刊全7部に加え新たに第8部も書き下ろされた上で角川文庫に収録されたのである。しかもこの種の政治本としては異例のベストセラーとなり、1983年(昭和58年)には映画化までされてしまった。これにはびっくりだったが、言い換えればそれだけ自民党の派閥抗争に対する世間の関心が高かったのだろう。
jimintosengokushi.jpgそして翌1982年には自民党派閥抗争史を書いた本がもう一冊出版される。
それが伊藤昌哉の『自民党戦国史』(朝日ソノラマ)だ。この本もベストセラーになり、後に伊藤昌哉はTV番組「トゥナイト」の常連コメンテーターとなった。
ともに自民党派閥抗争史を描いているが、2冊は対照的な内容になっている。
『小説吉田学校』は小説と言う形式で外から客観的に派閥抗争を書いているかのように見えて、実は戸川猪佐武(元読売政治記者)は大の田中角栄シンパなので、角栄寄りの記述になっている。一方『自民党戦国史』の伊藤昌哉は池田首相の秘書官を務め、池田の死後は大平正芳の私的相談役として派閥の内側にいた人だ。しかも大平と田中が盟友関係でありながら伊藤自身は大のアンチ田中であり、むしろ田中のライバル福田赳夫と近しかった。福田内閣時代は大平との連絡役として官邸に送り込まれていたこともある。
つまり両書は派閥の内と外、アンチ田中と親田中と言う対照的な立場で書かれている。言い換えれば両方を読み比べることでより真実に近づけるのかもかもしれない。
『自民党戦国史』で個人的に一番興味を惹いたのは、伊藤の目を通して描かれた政治家たちの生の姿だ。表向き政界の実力者として気丈にふるまっている彼らも実は弱気で常に不安なのだ。特に驚いたのは、金光教の信者である伊藤の口を通じて伝えられる「神様のお告げ」を大平も福田も熱心に聞きたがっていたことである。と言っても別に彼らが神頼みで政治をやっていたわけではない。ただ最高権力者として常に決断を迫られている彼らは常に不安でもあり、何かにすがりたい心情の表れなのだろう。
それにしても今になって読み返すと、40年前の政治の話なのでさすがに時の流れを感じる。当時は「福田派総会で気勢を上げる若手の森喜朗、小泉純一郎」とか「田中派のヤングパワー小沢一郎」が後に首相や政界の大御所になるとは夢にも思わなかった。そう考えると「三角大福中」の一人でありながら今なお健在で憲法改正に執念を燃やす99歳の中曽根康弘は殆ど妖怪じみている。


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大映俳優列伝(7)月丘夢路

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今月3日、月丘夢路が94歳で亡くなった。あまり大映のイメージを持っていなかったが、実は初期のスターなのである。なので予定外だが急遽割り込みで取り上げることにする。
1922年(大正11年)生まれ。1937年(昭和12年)に宝塚音楽歌劇学校入学。同期は乙羽信子、越路吹雪らである。1940年に宝塚映画「瞼の戦場」の主演で映画デビューし、42年、発足直後の大映で「新雪」のヒロインを演じ大ヒットをとばす。映画は知らなかったが灰田勝彦が歌う主題歌「♪紫けむる新雪の~」は後年、懐メロ番組で何度も聞いたことがある。
翌年、宝塚を退団し戦時中の大映で活躍。終戦後最初の大映東京作品「別れも愉し」(1945年9月)にも主演しているが、この映画は終戦前に撮影が始まり終戦後に完成したと言う。その後もしばらく戦後の大映で活躍していたが、47年に松竹へ移籍する。
ちなみに宝塚同期だった乙羽信子はこの後の1950年に大映入りしスターになっている。しかも乙羽は「原爆の子」(1952年、近代映画協会)出演を強行して大映を辞めたが、同じ原作を映画化した「ひろしま」(1953年、日教組プロ)には月丘が主演しているのである。
1955年、製作を再開したばかりの日活に移籍しここでも主演女優となるが、1959年にフリーとなる。大映、新生日活をいずれも初期にスターとして支え、短期間で去っているわけである。
フリーになってからの60年代には古巣の大映作品にも何度か出演し、「釈迦」(1961年)で王妃を、「第三の悪名」(1963年)では女親分を貫禄たっぷりに演じ、衰えぬ妖艶な美貌を見せている。
1974年の「華麗なる一族」では佐分利信の本妻役で愛人役の京マチ子と3Pのベッドシーンを演じたのが印象的だったが、よく考えてみたらこれ、新旧大映スター女優の3Pだったのね。京マチ子とは1977年の横溝正史シリーズ第1作「犬神家の一族」で再び共演している。
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個人的にリアルタイムで知っているのはこの頃からなので、当時は某宗教団体が絡んだ高麗人参茶のCMに出演しているオバさんぐらいにしか認識してしていなかった。「江戸川乱歩の美女シリーズ」のメイン監督井上梅次の奥さんと言うことも後に知ったと思う。件のCMの影響もあってか徐々に露出が減り、80年代始めで女優活動を停止している。
2010年に夫の井上監督が亡くなりお別れ会が催された時も姿を見せずメッセージだけだったが、2012年の「徹子の部屋」で久々にテレビ出演して元気な姿を見せた。だが結局それが最後になったようである。

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