大映俳優列伝(33)松方弘樹

kyoshiro1408.jpg
言わずと知れた大スターの松方弘樹である。その長いキャリアの中で大映に在籍した期間は2年に満たない。それ故大映時代については省みられることが少なく、出演作の大部分も亡くなるまでDVD化を後回しにされていたほどだ。以前松方が亡くなった時にも若干触れたことがあるが、改めて詳しく語ってみたいと思う。
プロフィールは今更言うまでもないので省略するが、剣戟スター近衛十四郎の息子として1960年(昭和35年)に映画界入りしたものの、東映ではあまり浮かばれなかった。近衛は息子を後押しするようなことをしなかったろうし、時代劇が廃れつつあったことにも運がなかった。60年代後半の東映は鶴田浩二、高倉健の任侠映画全盛時代だが、若造の松方にあまりお呼びはかからず、あっても4番手以下の脇役であった。
その頃、落ち目の大映では追い打ちをかけるように大黒柱の市川雷蔵が癌で倒れ、一度は復帰したものの69年2月に再入院していた。しかも今回は再起不能であることを社長の永田雅一は知っていたのである。なので非情のようだが経営者としては雷蔵の穴埋めのことも考えねばならない。そこで燻っていた松方のレンタルを東映に申し入れるのである。
よく間違えられるが、雷蔵が死んでから移籍したのではなく、まだ存命のうちに移籍したのである。
松方によれば当時の東映京都撮影所長でのちの社長である岡田茂から「ちょっと大映に行ってこい。あそこはスターがいないから、主役を取れるぞ」と言われたらしい。松方にとっても渡りに船で、レンタルと言う形で移籍が成立するのである。当時26歳だった。
69年5月に公開された移籍第1作の「秘剣破り」は10年前に雷蔵で映画化されていた「薄桜記」(59年)のリメイク作であり、雷蔵に倣うことで後継者の立場を明確化した形である。助演の本郷功次郎はかつて雷蔵、勝新に続くスターと言われた男である。外様で後輩の松方を引き立てる役割に回った心境は複雑であったかもしれない。
第2作「刑務所破り」は一転して東映に範を倣った任侠映画で、これまた雷蔵の相手役が多かった藤村志保が共演でサポートしている。なお、この撮影中に雷蔵が帰らぬ人となる。
すると3作目には早速雷蔵生涯の当たり役だった「眠狂四郎」が松方でリメイクされる。まだ雷蔵の気配すら残っているような撮影所で雷蔵以外の狂四郎を迎えねばならぬ大映のスタッフや俳優たちの胸中は穏やかでなかったろうが、演じる松方自身もやりにくかったに違いない。
その雰囲気を反映したのか、松方の狂四郎1作目「眠狂四郎円月殺法」はちぐはぐな中身だった。脚本には東映から高田宏治と高橋稔が呼ばれ、監督は大映京都のベテランながら狂四郎シリーズは初登板の森一生だった。シリーズの約束事や狂四郎のキャラクターがよくわかっていなかったのかもしれない。
それを反省したのか、2作目の「眠狂四郎卍斬り」の監督には雷蔵の狂四郎シリーズも手がけたエース池広一夫が登板し、脚本にも大御所の依田義賢が起用されている。そのため中身はよくなっているし、松方の個性も反映されてまずまずの出来になっていると思う。
だが松方の狂四郎はこの2作のみで打ち切られてしまうのだ。
理由は、まるで客が入らなかったからである。ただでさえ客足が鈍っていた大映の上映館にはますます閑古鳥が鳴く有様。前後して「二代目若親分」「忍びの衆」など雷蔵の人気作をリメイクした作品も全く受けず、シリーズ化されることなく終わっている。
まだ雷蔵のイメージが鮮明なこの時期、しかも全く個性の相反する松方に雷蔵の模倣をさせること自体が土台無理だったのである。
次の 「玄海遊侠伝 破れかぶれ」は初めて主演ではなく、大映の大スター勝新太郎と共演している。続いて、70年3月公開の「兇状流れドス」は雷蔵のリメイクではないオリジナルの任侠物である。しかしこれも興行成績は芳しくなかったらしい。ただそれも松方個人の責任ではなく、そもそも他社の二軍をいきなりエースに据えても戦えないのは最初から分かり切っていた話であろう。
そのせいかどうか知らないが、その後松方の出演作はぱったりと作られなくなる。一説によれば、この時期、日活との提携(ダイニチ映配)に反対したことが永田の逆鱗に触れ干されてしまったのだと言うが、必ずしもそうではあるまい。70年後半の公開ラインナップを見ればわかるように、当時の大映はハレンチ物の現代劇だけで食いつないでいる状態で、時代劇の製作数が激減して京都撮影所は開店休業のような有様だった。別に干されるまでもなく、そもそも松方が出演できるような作品がなかったのである。
いずれにしても松方の姿は9か月間スクリーンから消え、年末の「皆殺しのスキャット」で漸く復活する。松方はアメリカ帰りのクールなガンマンを演じ、出来はイマイチだが大映流ニューアクション映画への可能性を示していた作品だった。だがこれが松方にとって大映最後の出演作になってしまうのである。
松方は1971年用の大映カレンダーには掲載されているが、二度と大映のスクリーンに登場することはなかった。
71年の年明け早々に東映に復帰。大映在籍2年足らずで9本に出演しただけだった。なおその年の暮れに大映は倒産する。
東映に戻った松方は早くも3月の「日本やくざ伝 総長への道」に出演しているが、主演は鶴田と高倉で松方のポジションは大映移籍以前と変わらず4番手以下だった。
74年、NHKの大河ドラマ「勝海舟」に主演していた渡哲也が病に倒れ、皮肉にもまたその代役が回って来る。松方は身代わりながら初の大河主演を無難に勤め上げて知名度を全国区にあげるが、当時のNHKは労使問題などで混乱し脚本の倉本聰が途中降板するなど現場はゴタゴタ続きだった。松方は「NHKは物を作るところではない」と痛烈な捨て台詞を残したが、一方で共演の仁科明子との不倫が週刊誌を騒がせたりした。本業の映画でも「仁義なき戦い」シリーズでブレイクし、この頃から名実ともに真のスターへと駆け上がってゆくのである。

大映映画の世界
スポンサーサイト

にほんブログ村

関連タグ: 大映 松方弘樹

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

コメントの投稿

非公開コメント

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
最新コメント
管理人のサイト
土曜日の美女たち
管理者用
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR