雅羅倶多館

1960~80年代のテレビドラマや映画を中心にあらすじや感想を書いています。

大映俳優列伝(69)荒木忍


1969年(昭和44年)は大映にとって忌まわしい年だった。7月17日に大黒柱の市川雷蔵が37歳の若さでこの世を去ったからである。雷蔵の死が大映崩壊の序曲になったことは言うまでもないが、この年に亡くなったのは雷蔵だけではない。脇役として大映時代劇を支え、雷蔵との共演も多かった2人の俳優も亡くなっている。
そのひとりが荒木忍である。
1891年(明治24年)生まれ。高校を中退して16歳で上京し東京ガスの配管工などをしていたが、騙されてタコ部屋へ送られた。タコ部屋と言っても今ではピンとこないが、戦前に炭鉱や土木工事のために労働者を拘束監禁して行われた過酷な強制労働のことであり、別名監獄部屋とも言う。
全くの余談だが、自分がタコ部屋を知ったのは昔「新青年傑作選」か何かで読んだその名も「監獄部屋」と言う探偵小説によってだった。なんでそれが探偵小説になるんだかわからないが、結末にその当時流行りの探偵小説的大どんでん返しがあったのである。
それはともかくとして、荒木もタコ部屋に送られたことが結果として俳優になるきっかけになったのだから人生わからない。なんとか脱出して、その途中で汽車賃欲しさに旅回りの劇団に加わったことが芸能界入りの第一歩だったからである。
浅草の常盤座などを経て、21年(大正10年)、日活向島撮影所に入社して映画俳優に転向した。22年、「破れ三味線」「不如帰」など数本に出演した後、同年暮れ国際活映に引き抜かれて衣笠貞之助らとともに移籍。その後はマキノ映画製作所、東亜キネマ、マキノ・プロダクションを経て、31年(昭和6年)、新興キネマ京都撮影所に移籍した。42年の統合で大映京都撮影所の所属となっている。
出演作は生涯に500本以上、大映時代だけでも300本近い数にのぼっている。比較的若い頃から老け役が多かったようだが、大映設立時で既に50歳を超えていたから、役柄も当然ほとんどが老人役である。中でも「忠臣蔵」(58年)の堀部弥兵衛や「眠狂四郎殺法帖」(63年)の空然など、頑固一徹な長老役や老僧役のイメージが圧倒的に強い。最も印象深いのは「悪名」シリーズで勝新太郎演じる朝吉の父親・善兵衛の役で、暴れん坊で怖いもの知らず朝吉が唯一頭が上がらない雷親父を説得力十分に演じている。
一方で悪役は少なく、ぱっと思いつくのは「濡れ髪喧嘩旅」(60年)の悪代官ぐらいなのだが、勿論自分が知らないだけでほかにもたくさんあるかもしれない。
70歳を越えても年間10本近い作品に出演し続けていたが、64年頃からは年2~4本程度に減っている。67年は1本も出演がなく、68年6月公開の「牡丹燈籠」が最後の出演作になった。
69年(昭和44年)1月、胃癌より77歳で亡くなった。
ちなみに妻は元女優の瀬川美津枝、娘は女優の荒木雅子、大映京都の脇役女優だった小松みどりは妻の妹である。

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大映俳優列伝(68)植村謙二郎

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植村謙二郎を知る人は今や少ないだろうが、「ウルトラセブン」の「おもちゃじいさん」と言ったらわかるかもしれない。
1914年(大正3年)生まれ。31年(昭和6年)に中学を卒業後、六代目尾上菊五郎が設立した日本俳優学校に二期生として入学する。同期には山形勲や三津田健がいた。36年、新興キネマ東京撮影所に入所し同年6月公開の「街の姫君」でデビューする。続く「さらば外人部隊」で初主演を果たし、かげりのある二枚目スターとして活躍した。
42年に大映東京撮影所専属となるが、43年に応召される。46年に復員して大映に復帰し、江戸川乱歩の「心理試験」を映画化した「パレットナイフの殺人」に無実の罪を着せられる画家の役で出演したのが戦後のスタートである。以後、「幽霊塔」(48年)「虹男」(49年)「氷柱の美女」(50年)など当時大映が得意としていたスリラー路線を中心にニヒルな役柄で活躍した。
49年には、東宝争議で東宝を離れていた黒澤明監督が大映で撮った2本のうちの1本である「静かなる決闘」(もう1本は「羅生門」)に出演している。三船敏郎演じる主人公の医師に梅毒を感染させた挙句、自らも破滅してしまう、劇中のキーマンと言える役柄である。
51年に大映を退社してフリーとなり、日活、東映の各社やテレビドラマに出演した。日活では川島雄三監督の「洲崎パラダイス赤信号」(56年)、東映では鶴田浩二、高倉健と共演した「暗黒街最大の決闘」(63年)などである。大映にも断続的に出演しており、「座頭市千両首」(64年)では悪代官を演じて市に斬られ、「眠狂四郎円月斬り」(64年)では狂四郎の円月殺法と対決するワケありの浪人を演じている。
特撮番組への出演も多く、「忍者部隊月光」(64年)や「戦え! マイティジャック」(68年)「人造人間キカイダー」(72年)などにゲスト出演。中でも「ウルトラセブン」第9話「アンドロイド0指令」(67年)では地球侵略を狙うチブル星人が変装した姿である"おもちゃじいさん"を演じ、子供たちに不気味な印象を残した。71年には問題作として知られる「帰ってきたウルトラマン」第33話「怪獣使いと少年」にも出演している。
74年には高倉健が主演したハリウッド製やくざ映画「ザ・ヤクザ」にワンシーン姿を見せ、テレビドラマにも出演するなど晩年まで活動していたが、79年に十二指腸穿孔のため死去した。
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大映俳優列伝(67)岡譲二


金田一敦子からの金田一繋がりで、今回は名探偵・金田一耕助を演じたことがある岡譲二である。
1902年(明治35年)生まれ。祖父は佐賀藩の勘定方を務め、父は三十五銀行の頭取だったと言う。立教大学商科を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する。26歳で部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の薦めを受けて退社し、日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社した。デビュー作は28年(昭和3年)の「維新の京洛 竜の巻 虎の巻」島津久光役で、当時の芸名は美濃部進だった。29年の「赤い灯青い灯」で主演に抜擢されスター俳優として活躍するが、31年に既婚者の女優・澤蘭子と恋愛・失踪事件を起こしたために退社を余儀なくされる。 同年、松竹蒲田撮影所に入社して「岡譲二」と改名し、ここでもスターになるが、恩人の野村芳亭監督の急死をきっかけに退社。協同映画を経て35年、日活多摩川撮影所に入社する。37年に渡辺邦男監督とともに退社してP.C.L.映画製作所へと移籍。同社の統合合併による東宝映画設立で東宝映画東京撮影所に所属した。
この頃に澤蘭子との内縁関係を解消し、38年に新橋の名妓・秀菊と結婚して一男二女をもうけた。ちなみに長男は後に真山譲次の芸名で俳優となり、東映の特撮TV「人造人間キカイダー」(72年、NET)ではキカイダーの宿敵ハカイダーの人間体であるサブロー役を演じた。
戦時中は3度の徴兵を受けて、最後は台北で終戦を迎えた。戦後、復員して東宝に復帰するが、東宝争議で47年に大映と契約。「裁かれる愛情」で大映初主演ののち、横溝正史原作の「蝶々殺人事件」を映画化した「蝶々失踪事件」に主演した。
実はこれに先立って大映では、金田一耕助のデビュー作にあたる「本陣殺人事件」の映画化を岡の金田一役で検討していたのだが、トリックが複雑なために断念したと言う経緯がある。結局、「本陣殺人事件」は東横映画(後の東映)が片岡千恵蔵を金田一役に「三本指の男」と言うタイトルで映画化したために、岡は初代金田一役の栄誉を逃すことになったが、大映は「本陣」の代わりに「蝶々殺人事件」を映画化し、主役の由利警部に岡を起用したのである。なお、由利麟太郎は戦前から活躍していた、金田一と並ぶ横溝作品のもう1人の探偵役である。
50年に江戸川乱歩原作の「氷柱の美女」で明智小五郎役を演じたのに続き、52年には横溝原作による「毒蛇島奇談・女王蜂」で遂に念願の(?)金田一役を演じる。金田一耕助と言えば現在では原作通りの着物姿が定着しているが、初代の片岡千恵蔵がソフト帽にスーツ姿で拳銃を使い、変装までするという颯爽とした活劇ヒーロー像を確立していたことから、岡の二代目金田一も千恵蔵を踏襲したスタイルになっている。
ちなみに岡以外で明智と金田一の両方を演じたことがある俳優は小野寺昭、稲垣吾郎の2人、そして金田一と由利の両方を演じた俳優には石坂浩二がいるが、明智と金田一、由利の3人を演じたのは岡譲二ただ1人である。由利物の横溝作品は映像化される機会が少ない(映像化されても探偵役は金田一に置き換えられてしまう)ので、おそらく今後もこの三大名探偵役を制覇する俳優は現れないのではないかと思う。岡は横溝作品とは不思議と縁があり、54年には千恵蔵主演の「悪魔が来りて笛を吹く」(東映)、河津清三郎が金田一を演じた「幽霊男」(東宝)にもそれぞれ別の役で出演している。更に57年、横溝作品の最初のテレビ化である「月曜日の秘密」シリーズ(日本テレビ、全11回)でも再び金田一を演じていて、そのうちの2話では自ら脚本も執筆している。
53年からは脇に回り、新東宝、東映、大映の各社に出演した。キネマ旬報社の『日本映画俳優全集』では60年の「草間の半次郎 霧の中の渡り鳥」(東映)を最後に引退となっているが、映画は66年の「五泊六日」(池部プロ)まで、テレビドラマは69年2月25日放送の「五人の野武士」(日本テレビ)第21話が最後の出演記録になっている。晩年は妻子と別れ、画廊を経営していたという。70年12月に死去。

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大映俳優列伝(66)金田一敦子

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ニューフェイスにはあたり年とはずれ年があったようである。これと言ったスターが出なかった年もあるが、1956年(昭和31年)の第10期はあたり年だろう。田宮二郎、石井竜一、叶順子、毛利郁子、市田ひろみ(後に服飾評論家)、そして金田一敦子である。
39年生まれ。金田一と言う姓からもわかるように、言語学者として著名な金田一京助の一族である。『日本映画俳優全集』には「父の叔父」と書いてあるのだが、正確に言えば「父のいとこ叔父(祖母の従兄弟)」にあたる。
ややこしいので系図を書くと、

          ┌勝定-リウ-〇〇-敦子
金田一伊右衛門勝澄―┤
          └ヤス-京助-春彦-秀穂

と言う関係になる。
米穀商として一代で財を成した伊右衛門勝澄の長男・勝定は明治から大正初期に盛岡銀行頭取や岩手軽便鉄道社長などを務めた実業家であった。勝定の妹ヤスの子である京助もこの叔父の援助で育っている。勝定の娘・リウと結婚して婿養子になった国士も養父の後を継ぎ実業家として活躍した。敦子はその孫なのである。
更に松竹で活躍した女優の三宅邦子は叔母にあたると言う。その叔母のすすめで56年、大映の第10期ニューフェイスに応募し合格する。57年4月「忘れじの午後8時13分」に端役で出演した後、同年9月に同期の石井竜一が主演した「健太と黒帯先生」「がんばれ!健太」の二部作で正式デビューした。
その後は「暖流」「猫は知っていた」などに助演し、58年6月「恋を掏った女」で初主演した。「夜霧の滑走路」「恋と花火と消火弾」でも主演・準主演している。ただしいずれも添え物の中編映画であり、「最高殊勲夫人」(若尾文子・川口浩主演)などの文芸大作物になると三番手四番手の役柄しか与えられていない。
59年1月、大ファンだったと言う市川雷蔵が主演の「遊太郎巷談」で時代劇に初出演したのに続き、3月の「若き日の信長」で雷蔵の相手役ヒロインに抜擢される。更に10月の「貴族の階段」では近衛文麿がモデルの貴族政治家・西の丸秀彦(森雅之)の娘・氷見子を演じている。物語は氷見子の目を通して描かれ全編が氷見子の独白ナレーションで進行するので、クレジット上のトップは叶順子だったが実質的には金田一敦子が主役と言っていい。
だが知る限りで印象に残る役はこれぐらいである。殆どの役柄が地で演じられるような良家の令嬢役に限定され、「たそがれの東京タワー」「好き好き好き」「嫌い嫌い嫌い」などはいずれも主人公の恋敵役でワンパターンだった。本人に女優をやり抜こうという気持ちが希薄だったらしく、『日本映画俳優全集』にも「箱入り娘として育ったせいか、女優と言う職業に対して欲もファイトも感じられなかった」と辛辣に記されている。
60年4月「大江山酒天童子」を最後に突如引退してしまう。表向きの理由では、次回予定作だった「すれすれ」の役柄がどぎつくベッドシーンまであるのを嫌ったためとされている。未見の作品なので実際にどんなシーンだったのか承知していないが、当時のベッドシーンでそれほど過激なことを要求されたとは思えないのだが…。ちなみに雷蔵とはロマンスの噂があったが、当時の週刊誌によれば家庭的な女性を求める雷蔵の結婚観と合わず破局したそうである。まあゴシップだからあてにはならないけども。

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大映俳優列伝(65)若松和子、紺野ユカ

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村田姉妹の次は、彼女たちより20歳以上若い若松和子と紺野ユカの姉妹である。尤も2人の姓が違うし顔立ちもそれほど似ているわけではないので、言われてみないと姉妹だと気が付かれないかもしれない。どちらかと言えば姉は和風で、妹はちょっとエキゾチックな顔立ちだと思う。実家は四谷の料亭で本名は「星」と言う。一男四女の長女が若松和子で末っ娘が紺野ユカだった。
若松和子は1936年(昭和11年)生まれ。50年、松竹音楽舞踏学校へ入り、54年に松竹歌劇団(SKD)入団。当時は本名の星和子を芸名に出演していた。55年にSKDを退団して大映と契約し、本籍地の会津若松にちなんで若松和子に改名した。翌年の「あなたも私もお年頃」でデビュー。当時のトップアイドル雪村いづみの相手役を勝新太郎が務める青春歌謡映画で、若い頃の勝新はこうした映画にも出ていたのだ。若松和子の役は勝新、田端義夫とともに旅をする売れないドサ廻りの楽団の一員である
「天使もお年ごろ」「くちづけ」などでヒロインの友人役や時代劇に助演した後、58年に仁木悦子原作の「かあちゃんは犯人じゃない」で初主演している。と言っても実質な主役は子役なのだが、22才にして早くも母親役を演じている。
以後「悪名太鼓」(64年)「眠狂四郎魔性剣」(65年)などに助演し、67年フリー。大映最後の出演作は69年の「ある女子高校医の記録 失神」だった。
68年に料理ジャーナリスト岸朝子の兄で競馬評論家の宮城昌康と結婚して一男一女をもうけた。娘は後に日本中央競馬会の元騎手で調教師の中舘英二に嫁いでいる。
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紺野ユカは42年生まれ。58年、姉と同様に松竹音楽舞踏学校へ入るが、大映に誘われ1ヶ月で中退して入社している。東京撮影所所長だった永田秀雅に芸名を紺野ユカと命名されて、同年「俺たちは狂っていない」でデビュー。 この映画で野口啓二、小林勝彦、当銀長太郎たちもデビューしている。
50本余り出演し、脇役でセクシーな役柄が多いが、61年「黒い十人の女」(市川崑監督)ではタイトルの十人の女のひとりである信子役を演じ、65年「清作の妻」(増村保造監督)では恋人の清作を若尾文子演じるお兼に取られてしまうお品役を好演している。なお姉との共演作は「その夜は忘れない」(62年)「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(66年) など何本かあるが、直接の共演シーンがあったかどうかまで調べていないのでわからない。
67年「痴人の愛」のナオミの姉マリエ役を最後に引退してしまう。これは次の作品でヌードになるように要求されたのが原因で、後の南美川洋子と同じケースである。紺野ユカの場合はそれまでにセミヌード的な役になったことはあるのだが、本当に脱ぐのは嫌だったのだろう。
その後は家業を引き継いで料亭を経営していたが、現在は福岡に在住し、その傍ら元大映俳優の川原禎文(芸名は宗近一)が経営している俳優事務所に所属して芸能活動も再開したようである。

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