大映ドラマに関する珍説

80年代に一世を風靡した大映ドラマと言えば感情表現が強烈で大げさな台詞が今でも語り草になっている。 これについて作家の小林信彦は時代劇の影響を挙げているらしく、その説がwikipediaにもまことしやかに引用されている。
「第二次世界大戦前には時代劇を売り物にしていた映画会社・大映が、第二次世界大戦の結果、GHQ占領下の日本では時代劇が禁止されたため、時代劇スターが現代劇を演じざるを得なくなった為、その大げさな芝居の時代劇の乗りによる現代劇に大映ドラマのルーツを求めている」(wikipedia「大映テレビ」より)
原文を読んでいないので真意は不明だが、本当にこの通りなら珍説だろう。時代劇禁止と言うが、大映は京都と東京に撮影所があり、京都で時代劇、東京では現代劇を専門に作っていてスタッフも俳優も別だった。従ってもともと東京で撮っていた現代劇には時代劇禁止の直接の影響がないのだ。そして大映テレビは映画時代から東京にあったのだから時代劇とは何の関係もないではないか。
百歩譲って大映ドラマが時代劇をルーツとする説が正しいとしよう。だとすれば大映映画の現代劇も時代劇の乗りの大げさな芝居だったはずだが、そのような印象は全くない。なのに何故戦前の時代劇が中間の大映映画をすっ飛ばして大映ドラマに隔世遺伝するのかさっぱりわからない。
むしろ時代劇の影響を受けたとすれば、大映ではなく東映のはずだ。何故なら小林の言う「現代劇を演じざるを得なくなった時代劇スター」とは、主に片岡千恵蔵を指す思われる。成程、時代劇を禁止された千恵蔵は戦後の大映で多羅尾伴内シリーズを初めとする時代劇調の現代劇を撮っていたことがある。だがそれらは全て京都撮影所の作品である。しかもまもなく時代劇が解禁され、大映京都で現代劇を作ることは殆どなくなった。
一方の千恵蔵は東映に移籍し多羅尾伴内シリーズを再開するが、今度は京都ではなく現代劇専門の東映東京撮影所で撮っていた。つまり時代劇乗りの現代劇が持ち込まれた本当の先は東映なのだ。千恵蔵はその後10年に渡って東西を往復しながら京都で時代劇、東京で現代劇を撮り続けている。なので「小林理論」を適用するなら、東映の現代劇にはさぞ大げさな時代劇調の芝居が受け継がれているのだろうが、東映に詳しくないのでわからない。

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永田雅一とアカデミー賞

youtubeにアカデミー賞授賞式に於ける永田雅一大映社長の映像があった。 受賞作は「地獄門」(1953年、衣笠貞之助監督)、外国語映画賞と衣裳デザイン賞である。
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永田雅一と国際映画賞と言えば黒澤明監督の「羅生門」(1950年)をめぐる逸話が有名である。 もともと永田は「羅生門」を酷評していたにもかかわらずベネチア国際映画祭でグランプリを獲得するや一転して自分の手柄にし、「黒澤はグランプリ、永田はシランプリ」と揶揄された…と言う訳だ。
一方この「地獄門」では役員全員の反対を押し切って永田が製作を強行し、見事にカンヌ国際映画祭でグランプリ、そしてアカデミー賞で外国語映画賞と衣裳デザイン賞に輝いた。"黒澤がいなくても賞は獲れる"と証したかったのだろう。
永田は1955年3月30日、ハリウッドで行われた第27回アカデミー賞授賞式に出席し二つのオスカーを手にした。

外国語映画賞を受賞した永田雅一

衣裳デザイン賞を受賞したイーディス・ヘッド(モノクロ作品部門「麗しのサブリナ」)と永田雅一(カラー作品部門)

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大映ニューフェイス

資料が残っている他社に比べ倒産した大映のニューフェイスは詳細がわからない。個人的に情報を収集した結果をまとめてみる(確実ではないのであまり信用はしないで貰いたい)。
大映のニューフェイスは東宝より早い終戦直後の1945年に始まり第1期は折原啓子や鈴木美智子だったようである。
第2期(1946年)には船越英二、渥美進(渥美マリの父)、関千恵子、及川千代、美奈川麗子などがいた。三條美紀も同期だが縁故入社(父親が大映演技課長で本人も大映経理課員)なのでオーディションを経たのかどうかわからない。
第3期(1947年)は根上淳、若杉須美子(後の若杉嘉津子)。第4期(1948年)には北原義郎、中条静夫、早川雄三、目黒幸子などその後大映を永く支えた顔ぶれが並ぶ。
第5期は4期から3年後の1951年に高松英郎、若尾文子、南田洋子らが入社している。その間の1949、50年はニューフェイスの募集そのものがなかったのかどうかよくわからない。しかしその後はほぼ毎年続いている。
第6期(1952年)は品川隆二、船上爽(後の南原宏治)、千葉敏郎、三田登喜子、第7期(1953年)は川上康子、第8期(1954年)は川崎敬三、第9期(1955年)は月田昌也、小泉順子。
第10期(1956年)は田宮二郎、石井竜一、叶順子、毛利郁子、市田ひろみ(後に服飾評論家)、金田一敦子。
第11期(1957年)は藤巻潤、丸井太郎、仁木多鶴子。第12期(1958年)は本郷功次郎、小林勝彦、野口啓二、浜田ゆう子。第13期(1959年)は江波杏子、吉野妙子…などなど。
1960年は第14期の渚まゆみ、それとは別に京都撮影所の「第1回フレッシュフェイス」なるもので細谷新吾(後の日高晤郎)が入社しており、以後このフレッシュフェイスが京都独自のニューフェイスとして混在してくるのでややこしい。
第15期(1961年)は三夏伸(三夏紳)、第16期(1962年)は倉石功、青山良彦。
1963年はニューフェイス募集がなかったようだが、この年は4月に撮影所でストが起こったのでそれどころではなかったのかもしれない。
1964年は第17期に美川憲一(後に演歌歌手)がいるほか、例の京都フレッシュフェイスの第4期として平泉征(平泉成)、三木本賀代、西尋子(後の賀川ゆき絵)らが入社している (フレッシュフェイス第2期、第3期は不明)。
第18期(1965年)は篠田三郎、笠原玲子。
1966年はニューフェイス募集がなく、1967年は第19期に渥美マリ、八代順子、八重垣路子、そして京都フレッシュフェイス5期の川崎あかね。
1968年はまたニューフェイスがなく、1969年に第20期の炎三四郎(後の速水亮)、八並映子、中野良子(入社せず)、京都6期の伊吹新吾(後の伊吹剛)。そしてこれが大映最後のニューフェイスになった。ちなみに東宝は1968年、東映も1969年まででニューフェイスを停止しており、映画会社が自前で新人スターを養成する制度は終焉を迎えている。

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Wikipediaによる盗用について

近年まとめサイトによる盗用が問題化している。筆者も微々たるレベルではあるがその被害に合っている。サイトから画像やテキストを無断転用された例は枚挙に暇ない。 尤もドラマのキャプ画像に関してはこちらにも一次著作権があるわけではないので、そう目くじらを立てるつもりはない。だが、コンテンツそのものの盗用となれば別だ。
例えばこのサイトは筆者のサイトの江戸川乱歩の美女シリーズ解説ページ内の「美女ファイル」のパクリだ。 女優のプロフィールが若干語句を変えただけで同じである(画像には一応出典が記してあるが、テキストにはない)。つまり著作権侵害である。
ただこの程度はまだ我慢できる範疇である。どちらがオリジナルでどちらがパクりか一目瞭然だからだ。もっと不快なのはWikipediaによる盗用だ。
筆者のサイトでは映画やドラマの配役情報に重きを置いている。しかし端役クラスの情報は資料がないので、自分自身で調べるしかない。当然手間も暇もかかる。しかも一個人の調査結果だからその情報が間違っていないとは言い切れない。なので勝手に転用されたくない。
ところがWikipediaへ何度も無断転載されている。しかもWikipediaはメジャーなサイトだから、オリジナルであるこちらのほうがWikipediaを引き写しているかのような印象を与えかねない。更に個人による不確かな情報を転載されることで、世間に誤った情報が流布してしまう懸念もある。なのでこの際だからはっきり書くが、 Wikipediaの「江戸川乱歩の美女シリーズ」キャスト欄の大部分は当方からの無断転載であり、なおかつ信用しないでもらいたい。サイトには注意書きしているが、その後も無断転載が続いている。

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大映の松方弘樹

かねて病気療養中だった俳優の松方弘樹が1月21日に亡くなった。今月は「ザ・ガードマン」の神山繁、「ガメラ対深海怪獣ジグラ」の八並映子、そして松方と、大映に所縁の俳優が立て続けに亡くなり大映ファンにとってはつらい月になってしまった。
え、松方が大映?東映じゃないの?と訝る向きがあるかもしれないが、実は松方は1969年から71年までの2年弱、早逝したスター・市川雷蔵の穴埋めとして東映から大映にレンタル移籍していたことがある。
松方によれば、
「東映にいても上がつかえていましたからね。岡田茂さん(※引用注)が『ちょっと大映に行ってこい。あそこはスターがいないから、主役を取れるぞ』と。
東映じゃあ、うだつが上がらないんですよ。役も二番手ならまだいいけど、その辺のいい役は待田京介さんとかがもらっていましたからね。任侠映画のほとんどを作っていた俊藤浩滋プロデューサーからも『お前はまだ若い』と言われていましたし。
大映だったら主役は勝オーナー(※新太郎)しかいませんから、京都には。ですから、喜んでレンタルで行きました」
http://www.news-postseven.com/archives/20140823_271983.html
とのこと(※岡田茂とは当時の東映京都撮影所長、後の社長)。
かくして東映では三番手・四番手に過ぎなかった当時26歳の松方が大映ではエースとして迎えられ9本の映画に出演、うち8本で主演を務めている。

1969.05.31 秘剣破り(監督・池広一夫)
1969.08.30 刑務所破り(監督・池広一夫)
1969.10.04 眠狂四郎円月殺法(監督・森一生)
1969.11.01 二代目若親分(監督・安田公義)
1969.12.20 眠狂四郎卍斬り(監督・池広一夫)
1970.02.07 忍びの衆(監督・森一生)
1970.02.21 玄海遊侠伝 破れかぶれ(監督・マキノ雅弘)※
1970.03.15 兇状流れドス(監督・三隅研次)
1970.12.05 皆殺しのスキャット(監督・森一生)
※「玄海遊侠伝 破れかぶれ」は勝新太郎主演、他は全て松方主演。

移籍1作目の「秘剣破り」はかつて雷蔵が主演した「薄桜記」(1959年)のリメイク物で、助演は雷蔵、勝新に次ぐ第三のスターと言われた本郷功次郎。外様で後輩の松方の脇に回った本郷には内心忸怩たる物があっただろうが、いずれにしろ雷蔵の後継者と言う立場を鮮明にした松方は以後「眠狂四郎」「若親分」と言う雷蔵の当たり役を演じることになる。
とは言え、雷蔵のイメージがまだ鮮明なこの時期にその代わりを演じるのは任が重かったし、そもそも雷蔵と松方では全く資質が違う。松方の主演作はそっぽを向かれ、ただでさえ客足の落ちていた大映の上映館ではますます閑古鳥が鳴くことになったそうである。
ちなみに「二代目若親分」以降の6作品のうち5本は南美川洋子との共演作なので、松方・南美川のコンビで売り出そうと言う思惑があったのかもしない。ところが南美川は「高校生ブルース」への出演を拒否したことでホサれてしまい、一方の松方も何故か71年は1本も出演作が作られぬまま大映倒産を待たずして東映に復帰している。一説によれば大映が日活と提携したダイニチ映配の設立に反対してホサれたとも言われるが、だとすれば瀕死に際してもなお主演俳優を干すと言う支離滅裂なことをしていた大映は末期症状を呈していたと言わざるを得ない。
落ち目の大映とは言えエースまで務めた松方であったが、東映復帰後は再び三番手四番手の位置に収まり、1973年の「仁義なき戦い」でブレイクするまで更に2年を要した。松方にとって大映での2年間は何だったのか、一度じっくり聞いてみたかった気がする。合掌。
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「眠狂四郎卍斬り」

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「忍びの衆」

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