大映俳優列伝(26)小林加奈枝

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大映京都の古参大部屋女優だったのが小林加奈枝である。
1907年(明治40年)生まれ。幼少期は日活の監督だった叔父・小林吉弥の家に住んでいたことから尾上松之助の映画に子役として度々出演させられていた。その後、母が女優・酒井米子の家を管理するようになった縁で、酒井に口説かれて24年(大正15年)に大部屋女優として日活大将軍撮影所へ入社している。42年(昭和17年)の合併で大映京都撮影所所属となり倒産まで在籍しているが、その間、一貫して大部屋女優だった。
デビュー以来、本名の小林叶江を芸名にしていたが、52年から小林加奈枝に改名している(『日本映画人名事典』に54年とあるのは誤りである)
役柄は女中、婆や、茶店の婆さんが圧倒的に多い。しかしたいていの場合に台詞はあるし、妖しい巫女の役などで結構目立つ場面もある。むっつりしたような顔立ちが特徴的で、「悪名」(61年)で中村玉緒演じるお絹の母親役や「眠狂四郎悪女狩り」(69年)で中将流の婆さん役が印象深い。
大映倒産後も女優活動を続け大島渚監督の「愛のコリーダ」(76年)「愛の亡霊」(78年)などに出演。高林陽一監督作品の常連でもあり「本陣殺人事件」(75年)「金閣寺」(76年)「蔵の中」(81年)などに出演している。最後の出演は1983年12月30日放送のTV時代劇「年忘れ必殺スペシャル・仕事人アヘン戦争へ行く」(テレビ朝日)だったようである。
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大映俳優列伝(25)小松みどり

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小松みどりと言っても無論五月みどりの妹ではない。無声映画時代のスターで戦後の大映で脇役だった女優である。
1891年(明治24年)生まれ。三男五女の末っ子であり、すぐ上の姉は戦前の舞台女優・脇役女優だった中川芳江と瀬川美津枝である。ちなみに中川の夫は映画監督の賀古残夢、瀬川の夫は大映京都の俳優だった荒木忍である。
1912年(大正元年)、姉とともに新派の舞台へ参加。後に声を痛めたため舞台を断念して活動写真の女優に転向し、小林商会に入社する。だが映画に馴染めず、偶々撮影所が全焼したの機に引退するつもりだったが、口説かれて1919年(大正8年)国際活映に入社。菊池寛原作の「真珠夫人」(20年)に主演するなどスター女優の一人として活躍した。
23年の関東大震災で京都に移転し、義兄の賀古残夢監督がいた松竹下加茂撮影所に入社。もっぱら賀古監督による澤村四郎五郎主演作で相手役を演じた。
25年、日活京都撮影所に移籍し、尾上松之助主演の「中山安兵衛」で堀部弥兵衛の妻を演じ初めて老け役に扮する。この頃から脇に回るようになり、42年の統合により大映京都撮影所所属となった。この時すでに50歳だった。
以後時代劇、現代劇の両方に出演しているが、殆どが茶屋の老婆等の端役なので目立つことは少ない。ただ溝口健二監督には信頼され、「お遊さま」(51年)を始め溝口が大映に移籍して以降の作品の殆どに出演している。出演予定がなくてもスタジオに呼ばれて溝口から俳優たちの所作についての意見を求められるほどだったと言う。
義兄である荒木忍との共演も当然ながらあり、勝新太郎の「悪名」シリーズでは荒木とともに主人公・朝吉の両親の役、つまり夫婦の役を演じている。
67年の「古都憂愁 姉いもうと」を最後に引退した。生涯独身を通し、82年に91歳で死去した。

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大映俳優列伝(24)ジョー・オハラ

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二世のような名前だが芸名である。しかも度々改名しているので、改名遍歴を辿り損ねると経歴もわからなくなる。
1903年(明治36年)生まれで小松商会を経て25年(大正14年)に京都の日活大将軍撮影所へ入社。『日本映画俳優全集』によれば同年の「此の母を見よ」がデビュー作である。当初は本名の仁平久で活動していたが、29年(昭和4年)頃から大原仁美に改名したようである。
30年に帝国キネマ(間もなく新興キネマに改組)へ移籍している。翌31年に大原穣、33年からはジョウ・オハラに改名。35年、マキノトーキー製作所に移ったがすぐ新興に戻っている。42年の統合で大映東京撮影所所属となり、倒産まで在籍した。
戦時中は芸名を大原穣に戻しているが、これはおそらくディック・ミネやミス・コロムビアが改名させられたのと同様の理由であろう。戦後もしばらくそのまま名乗り続けていたが、1950年にジョー・オハラへ改名し、以後はこの芸名でほぼ定着してる。
戦後だけに限ると映画データベース上には50本程度の出演データしかないが、それ以上にノンクレジットの出演が多かったはずである。大半の作品で台詞がなく、あっても一言か二言と言うエキストラ専門の典型的な大部屋俳優であった。
ガメラシリーズの常連でもあり、クレジットされているのは「ガメラ対バルゴン」(1966年)の老酋長役と「ガメラ対ギャオス」(1967年)のホテル・ハイランド支配人だけだが、ノンクレジットで「ガメラ対ジャイガー」(1970年)や「ガメラ対ジグラ」(1971年)にも対策本部のメンバーとして顔を出している。
大映倒産以降の活動記録はない。

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大映俳優列伝(23)飛田喜佐夫

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子役上がりで半世紀以上のキャリアを持っていたのが飛田喜佐夫だ。1926年(大正15年)、三男三女の三男に生まれ、次兄は大映東京撮影所の録音技師だった飛田喜美雄である。なので弟の出演作に兄が録音で携わった作品も数多くある。
子役として映画界入りした当時の経歴は時代が古いためか曖昧な点が多い。
『日本映画俳優全集』によれば1930年(昭和5年)に父親の知人の紹介で電通教育映画部に入り、同年に同社の「昼寝も出来ない」でデビューしたことになっている。だが日本映画情報システムのデータに登録されている「昼寝も出来ない」は32年の作品であり製作も映音商店である。飛田喜佐夫が出演していたかどうか定かではないため同名の別の映画の可能性もあるが、「昼寝も出来ない」と言うタイトルの印象からしても教育映画ではなく商業映画であろう。おそらく電通教育映画部を辞めた後で(或い在籍したまま)32年に映音商店の「昼寝も出来ない」に出演したのではあるまいか。
また、同書では34年に「日月と共に」に主演とあるが、これも37年の日活多摩川作品である。こちらは日活作品データベースに出演者として飛田喜佐夫の名前があるので『日本映画俳優全集』の記述が間違いであろう。出演者名のトップは山本礼三郎であり、飛田喜佐夫主演というのも疑わしい。
1934年に日活多摩川撮影所に入所した以降のことは確実のようで、「少年靴屋」(35年)「路傍の石」(38年)「風の又三郎」(40年)などに子役として出演している。ただし『日本映画俳優全集』では、47年から本名の「飛田喜三」を芸名の「飛田喜佐夫」に改名したことになっているが、実際は子役時代から既に喜佐夫(もしくは喜佐雄)でクレジットされており、喜三名義なのは戦中戦後の一時期だけである。
42年の統合で大映東京の所属となり倒産まで在籍してる。映画データベース上に登録されている出演作は100本程度だが、ノンクレジットを含めると実際はもっと出演していると思われる。その全てが脇役であり社員Aとか工員Bなどの名もない役が大半を占めている。印象に残る作品としては「野火」(59年)で主人公船越英二の戦友役や「ガメラ対ギャオス」の警官役が挙げられる。「妖怪大戦争」(68年)では河童の声を吹き替えている(スーツアクターは黒木現)。
71年の大映倒産後はフリーになったが、出演作は大映テレビのドラマ「白い牙」(74年)や新生大映と永田プロ共同製作による映画「君よ憤怒の河を渉れ」(76年)など、大映ゆかりの作品が多かったようである。
82年に大映出身の村野鐡太郎監督の映画「遠野物語」に出演したのを最後に出演記録が見当たらず、その後の消息は不明である。

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大映俳優列伝(22)丸井太郎

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大映、東宝、松竹、東映、日活の大手5社が牛耳っていた当時の映画界には「五社協定」と言う悪名高い業界ルールが存在していた。スター俳優を専属制で縛って移籍の自由を認めず、違反者は徹底的に干すと言うものである。これにより犠牲となった俳優は少なくないが、その一人として必ず名前があがるのが丸井太郎である。
高校を卒業後、文学座で裏方として働いていたが俳優に転向し、1957年に大映第11期ニューフェイスとして入社している。同期は藤巻潤や仁木多鶴子だった。
本名の石上正治を一字変えた石上正二の名で58年にデビューし、端役で数本出たのち同年11月公開のコメディ映画「恋と花火と消火弾」から芸名を丸井太郎に改めている。
この映画は長編の添え物であったが、主役の一人に抜擢されている。もう一人の主役は同じく伊藤直保から改名した三角八郎だった。つまり「丸と三角」のコンビで売り出そうとしたわけである。
続く「盗まれた縁談」にも丸・三角が準主役で出演している。しかし2人のコンビは結局この2作だけで終わっている。以前も触れたが、どうも大映にはコメディの土壌がなかったようだ。
その後は端役ばかりだったが、1963年6~9月にTBSで放送された大映テレビ室製作のテレビドラマ「図々しい奴」で主演の戸田切人(とだ・きりひと)役に抜擢される。これが大人気番組となり、一躍有名俳優になった丸井の許には当然テレビ局から次の出演依頼も来た。だがテレビより映画を優先する大映によって映画界に引き戻されてしまうのである。
映画界復帰後についてウィキペディアには「そんな彼を待っていたのは飼い殺しに等しい扱いだった」などと、もっともらしく書かれているが、事実は異なる。64年1月公開の「温泉女医」では準主役(若尾文子の相手役)、「現代インチキ物語 騙し屋」では主演グループの一人で起用され、7月には「無茶な奴」と言う単独の主演作も作られているからだ。折角テレビで上がった知名度を無駄にするほど大映もバカではない。
尤も「図々しい奴」の放送後1年近くも経った頃に、しかも「無茶な奴」などと明らかに「図々しい奴」を意識した中途半端なタイトルで主演作にするぐらいなら、いっそのこと「図々しい奴」を映画化をすべきだろう。ところがその映画化権は東映に横取りされテレビ版の主題歌を唄っていた谷啓の主演で一足早く公開されてしまっていたのである。旬をものにできない大映の駄目な面が現れている。
ともあれテレビ人気に乗じて映画でも丸井をスターに仕立て上げようとしたことは明らかであろう。ただそれも最初のうちだけで、一過的な人気が去った後は平凡な脇役俳優に落ち着いている。
テレビと映画は別物であり本人に銀幕で観客を引き寄せる力がなかったせいもあろうが、コメディが苦手な大映では丸井の魅力を引き出すような映画を作れなかったのだろう。今でも人気の高い特撮物「大魔神怒る」(66年)と「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(67年)に出演したことで多少とも名前を知られているのがせめてもの救いである。
1967年9月6日、「兵隊やくざ 殴り込み」の撮影で出張していた京都から東京に帰った直後に自宅マンションでガス自殺した。まだ32歳の若さだった。ウィキペディア等には俳優として絶望した結果であるかのように断定的に書かれているが憶測に過ぎず、遺書からは妻との別居を苦にしていた様子も窺えるが直接の動機は不明とされている。外見や役柄とは裏腹に素顔は真面目で繊細な人物であったという。

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